私は読書中毒で本がなければ死んでしまうような生活を送っている。
大好きな小説に限らず、自己啓発的な本もそれなりに読むのだが、最近気付いたことがある。
それがこの記事のタイトルに書いてあることだ。
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最近の流行りなのか、書店に行くと『〇〇力』や『〇〇技術』といったタイトルが常に平積みされている。どれかがなくなるとまた新しい力や技術が投入されるという現象を繰り返している。しかもそれが売れ続けているようである。
私は新しい考え方やメソッドに触れるのが大好きなので、こういった本もよく手にとるのだが、読んでみてガッカリすることはままある。
あまりにも内容がエッセイになりすぎていやしないか。
こういった『〇〇力』『〇〇技術』系の本は、作家よりも「その道の最先端」的な、いわば「文筆においては一般人」が書いていることが多く、ノウハウだけで書面を埋めることができるほど筆力がないのだろう。
内容自体は読み物として面白いのは認めるのだが、タイトルに納得しないことがあまりにも多い。
ずいぶんと売れているようだが、みんなも感じなかったのだろうか?
日本人は勉強家が多いので、こういった「新しいノウハウっぽい本」はよく手に取られる。新しいものを取り込もうという気持ちに火をつけてくれる。
という心理を利用しすぎじゃないかと思うのだ。
言い方は悪いが、これは題名詐欺みたいなものだろう。
こんなことを書いてはいるものの、内容自体が面白いものが多いことは事実で、じゃあ「内容が面白ければタイトルは何でも良いのか?」という葛藤はある。
純粋な本読みとしては面白ければ何でも構わないし、『〇〇力』を身につけるための知識が欲しかった個人としては裏切られた気持ちになるのだ。
話はそれるが、そもそも『〇〇力』というタイトルも際どいと感じている。力を与えることはできないはずなので、『〇〇知識』ぐらいが妥当な所じゃないだろうか。
まあそれだと売れなくなっちゃうんだろうけど。
タイトルと中身の内容が一致しないものがまかり通るならば、私がこの記事でキリンへの愛を語っていてもいいのか、という話になる。そもそもキリンへの愛情なんてないから書けないのだから、これは例えばの話である。真に受けないで欲しい。そして真に受ける人なんかいないことも知っている。
作品において読者の期待を裏切ることは大事だと思うが、タイトルというのは看板なのだから、いわば「中華料理」みたいなもんだろう?いざ、店の中に入ってメニューがフランス料理だったらガッカリするのは当たり前のことなのだ。
ただ思うに、みんな真面目なので『〇〇力』や『〇〇技術』というエッセイをしっかりと「ノウハウ本」として読み込むから文句が出ないだろう。
もしそこで得るものがなくても、「自分には理解する力がなかったんだ」とか「自分にはできないことだな」と思って終わりである。エッセイなのだからそうなって当然だが…。
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ただ私はこれでも職場で「自責」を口うるさく言う上司である。
どんな問題にぶち当たっても、まずは「自分にできることは何か?」と考えるべきなのだ。
この「『〇〇力』や『〇〇技術』系の本9割がエッセイ」問題に対しても自らが「自責」の念を持って臨むべきなのかもしれない。そうでないと、部下たちに申し訳が立たない。
そうなると、「タイトル通りのものを期待していることが間違い」という考えもあり得る。
つまり私は本に甘えていたのだ。
『〇〇力』や『〇〇技術』というタイトルに釣られて、勝手に期待して勝手に落胆していたのだ。
まるで恋する乙女がいざ意中の相手と付き合いはじめたら、相手の嫌なところを見るなり幻滅するようなものである。
元々そういう本だったのだ。
確かに考えてみれば、『カラマーゾフの兄弟』になれなかったし、『蜘蛛の糸』が出せるようにもなれなかったし、未だに『人間失格』の烙印は押されていない。
そうか、そもそも本というのはタイトル通りにはいかないものだったのだ。
なぜこんな簡単なことが分からなかったのだろう。本が大好きでこれまでに散々読み尽くしてきたというのに。
きっと私は本が好きがゆえに、本に甘えていたのだ。さきほどの恋する乙女の例のように、私は自分の中の「本とはこうあるべきだ」という幻想に取り憑かれていたのだろう。
愛情とは受け入れることだ。
私は「本好き」から「本の愛人」に成長を遂げるべきなのかもしれない。
うん、もうこれでいいや。
以上。
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ただ『諦める力』は名著だと思います(媚)。