俺だってヒーローになりてえよ

何が足りないかって、あれだよあれ。何が足りないか分かる能力。

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メディアの歪みは大衆の歪み。『「A」 マスコミが報道しなかったオウムの素顔』森達也

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どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

今回ご紹介する本は、ドキュメンタリー映画作家、映画監督としてカルト的人気を誇る森達也氏の原点とも言うべき作品『A』について書かれた本である。

これがなかなか凄い作品なのでぜひとも紹介させてほしい。

 

内容紹介 

 

まず簡単に説明すると、『A』というのはオウム真理教の内部に密着したドキュメンタリー映画である。

この本は映画『A』の撮影日記のようなものである。

内容は映画と補完し合うようなものになっているので、映画を観た人も観ていない人も楽しめる。

ちなみに私はまだ映画の方は観ていないが、最高の読書体験をさせてもらった。元々森達也の文章にはハマっていたのだが、特にこの作品は一気読みしてしまった部類に入る。

なにせ取り扱っているのがあの「オウム」だ。強烈さが他の著作とは段違いだ。

 

ただ、一点残念な点が。

こんな角川書店という大手から出版されているにも関わらず、森達也のネームバリューに期待していなかったのか、編集が若干適当である。誤植を何箇所か見つけてしまった。

 

まあそれは多少のノイズにはなるものの、内容のクオリティとは関係ない。大体にしてほんの2,3箇所である。気にしなければいいだけの話だ。

 

『A』が撮られた当時の空気

この映画が撮られた当時、麻原彰晃率いる新興宗教団体オウム真理教は、世間から完全に「悪の組織」「異常者集団」というふうに認識されていた。

それもそのはずで、彼らは地下鉄にサリンをばら撒き、無差別殺人を行なったからだ。

事件当時、私は小学生。連日テレビで報道されるオウム真理教の信者たちの姿は、幼い私から見ても「頭のおかしい、自分たちとは全く違う世界の住人」だった。親もしきりに「こいつらはバカだ」とよく言っていた。

たぶん、オウムのあの事件があったからこそ、今でも日本は宗教へのアレルギーが強いのだと思う。ちなみに外国ではもっとカジュアルに自分の宗教を言えるらしい。それこそ自分の好きなサッカーチームを言うかのように。ああ、でもあれか。日本だとそれさえも喧嘩の火種になりえるか。どうしようもねえな。

 

どちらが正義なのか?

連日テレビなどで報道されるオウム真理教の実態。

テレビ局は

「とりあえずオウム」

「オウムさえ取り扱っておけば視聴率が取れる」

というスタンスだった。だから虚実入り乱れた内容でも平気で放送していた。それは本書にも書かれている内容で、マスコミの卑怯さにウンザリしてしまうほどだ。

 

またその一方で、オウムの異常性は実際問題、無視できるレベルでは無かった。

地下鉄サリン事件だけに収まらず、彼らの宗教施設内部でのリンチや、洗脳行為、邪魔な人間を暗殺するなど、その実態が明らかになればなるほど、「オウム=悪」という図式が世間の人々の中で強化されていく。

 

人は恐怖を扱うコンテンツに弱い。

自分に害をもたらすかもしれない可能性があれば、見ずにはいられない。その心理は経済活動に簡単に取り込まれる。マスコミが大衆を煽り、大衆がマスコミを煽る。互いに絡み合うように加熱していく。

あとは次なる話題が出てくるか、大衆が飽きるかしか、この流れを止めることはできないだろう。

 

どれだけ醜かろうが、メディアはあくまでも大衆を映し出す鏡だ。

メディアの歪みは、我々大衆の歪みでもある。

 

我らが森達也登場

世間がオウムバッシング一色に染まり報道が過熱する中、テレビの前でひとりその状況に疑問を抱いた男がいた。

 

我らが森達也である。

 

この男、著作を読むと思い知らされるが、とにかく優柔不断。何も決めない。答えを出さない。 断定しない。ただただ観察したことと、それに対する自分の感情や考えを並べるだけ。彼の作品を読んでも、ひたすらモヤモヤするだけ。

でもそれがいいのだ。まるで悪口でも書いているかのようだったと思われるかもしれないが、それはまったく逆だ。

 

答えを求める大衆

世間では好き勝手なこと言いふらし、まるでそれが「答え」だと決めつけるかのような物言いする人で溢れかえっている。そしてそうやって「言い切ってくれる人」を世間は求めている。答えをみんなが欲している。分からないままにしておけない。それが大衆だ。

 

我々はあまりにもこの「答えがすぐに分かる」ことに慣れすぎてしまった。それゆえに、疑問を感じることも少ないし、安易に決めつけてしまう傾向がある。

それはオウムにしても同じである。

確かに彼らは無差別殺人を行なった。しかし、「オウム信者」という属性だけで全員を語れるほど、人間は単純ではない。むしろ「オウム」という団体でさえ、「悪」とか「殺人集団」なんていう単純な言葉でまとめられるようなものではないのだ。多面的であり、経時変化だってする。

 

あえて反対側に立つ森達也 

ゴーストライター騒動で話題になった佐村河内守を題材にした映画『FAKE』のときもそうだったが、森達也はいつだって大衆とは反対側に立とうとする。大衆が完全に見失っている(というかそもそも、持とうとさえしていない)側からの視点を提供してくれる。

これによって森達也のコンテンツに触れた人間は、「一体自分たちが答えだと思ってきたものは何なのか?」という疑問を持たざるをえない。そして、疑問を持った瞬間に、世界は一気に姿を変える。まるで景色が変わる。

この体験こそが森達也作品に触れる最大の価値だと私は思う。

 

メディアはあくまでも資本主義のアイテムでしかない。金儲けにならないものは扱わない。

だからこそ、森達也のような「金にもならない」「誰も興味がない」「誰も見ようとしない」コンテンツが重要になる。

 

繰り返すようだが、物事は何でも多面的だし、経時変化をするのだ。

簡単に括れなくて、当然なのだ。

それは自分自身を顧みれば簡単に分かることだ。あなたという人間を一言で表すことができるだろうか?もしできたとしても、その言葉から漏れるあなたの要素はないだろうか?

 

視点が増える。それだけで価値がある

森達也はバランスを取るために、あえて今回の『A』ではオウム側に比重を置いた描き方をしている。それゆえに「肩入れしている」という見方もできるだろう。

しかし、それは本質ではないと思う。議論すべきはそこではない。

「思考停止にはなっていないか?」「見落としてはいないか?」

そこが重要なのだ。どちら側とかそういう問題ではないのだ。

 

森達也のやり方がどうのとかも、どうでもよくて、彼が言いたいこともどうでもよくて、

「より多くの視点を持つことができる」

それだけで彼の作品は価値を発揮しているのだ。

 

モヤモヤする部分もあるかもしれないが、逆にそれこそが「真実を知った状態」だと今の私は思う。みんなを理解すればするほど、みんなの気持ちを優先すればするほど、決めつけられなくなるのは、当たり前の話である。

どうか、思考停止にならぬよう。

 

以上。