どうも、ひろたつです。
読書とは関係ない話。
魔法の鍵はない
どうすれば伝わるか。
仕事でも、こうやってネットで文章を書くときでも変わらない私の命題である。
このブログでは何度か書いているが、日中に社会生活を送っているときの私は100人ぐらい部下がいる所帯で仕事をしている。なので、情報伝える、理解してもらう、はたまたやる気を奮起させる、といった欺瞞全般を賃金と引き換えに行なっている。
それだけの人数がいるので、人心掌握するのはほぼ不可能だし、ちょっとした注意喚起でさえもなかなか伝わらない。
人は千差万別であり「こうやれば伝わる!」というような魔法の鍵は今のところ見つかっていない。たぶんない。ずっと苦しみ続けないといけないっぽい気がしている。一切皆苦とはよく言ったもんだ。最悪。
出会いの季節の風物詩
で、この記事を書いてるのは4月。出会いと別れの季節である。
私の職場でも新卒が数名入ってきて、その初々しさと華やかさを目にするに、腐りかけのオッサンである私は潰れそうである。色んなものが。
新たな部下を迎えるこの季節のたびに私は戸惑う。
どうやって接すればいいんだっけ?と。
少し前であれば、あえてパワハラじみたことを冗談めかして言うことで「パワハラ上司コント」みたいにして空気をほぐしたりしていた。バカを演じることで敷居をいきなり下げて行こうという感じである。
だが最近では冗談として通用する前に発言自体に着火してしまうので、役職者としては穏当で無難でつまらない言葉しか使えなくなる。
キワドい表現を使って笑いを取ろうにも、「キワドい」が感じられた瞬間にみんなの頭に「それ大丈夫…?私は平気だけど、誰か気にする人がいるかも…」という恐れが発生してしまい空気が凍るのだ。
となると私の口から出てくるのはこんな言葉ばかりになる。
「これからよろしくね」
「色々と大変なこともあると思うけど、何かあったら言って」
「まずは慣れるところから」
などなど、分かりきった言葉であり、なんの意味も持たないような言葉のオンパレードになるのである。自身で言葉を発しながら(めちゃくちゃつまんない時間を与えてるな…)と思ってしまうのである。
当然新卒の子たちからしても、まったく見も知らない大人たちに囲まれて、どうやって対応すればいいのか戸惑っているだろう。「右も左もわからないので、ご迷惑をおかけすると思いますが、これからよろしくお願いします」といった型式通りの言葉を使うしかない。
お互いに手探りしている時間は、ずっとつまらないことを言い合う時間でもある。
これがキツい。
ネットやSNSで文章を書き散らかし、ちょっとでも「みんなにウケたらいいな」とネットスケベ根性丸出しで生きてきた私としては、「確実にウケないこと」を言わなければならないのは、けっこうキツい。自分で書いてて思うけど、ちょっと病的かもしれない。
ウケないの代表、校長の話
私の中でウケないの代表といえば校長である。
学生時代の校長の話ほどつまらないものはないと思うのだが、きっとあれも色んなリスクや義務というハードルをクリアした結果生み出された忌み子なのだろう。
だが先日参加した小学校の卒業式は、全然期待していなかった予想を裏切って抜群に面白かった。
式の開始早々、校長の挨拶。
「この良き日にうんぬん」
また型通りの挨拶を聞かされるのか…とウンザリしたところ、そこから急転直下、めちゃくちゃ面白かったのだ。
あんまり具体的に書くと身バレのリスクに繋がるのでフェイクを織り交ぜさせてもらうが、最近校長自身が体験したことの話だった。
校長職をしているが、母親の介護が必要になり、学校での職責とプライベートでの圧迫とで気持ちに余裕がない毎日を過ごしていた。
みんなの前に立って話をするたびに、こんなに余裕のない自分が希望の未来に輝く子どもたちに話をする資格があるのか。そう自問自答していたそうだ。
そんなある日、介護施設などの問題から一週間ほどどうしても休まなければならなくなってしまったことがあった。
時期としても最悪で、運動会の準備期間と完全に被っていた。
どうすることもできないけれど、どうすればいいのか悩み続けるのを止められない。母の介護も、職責もどちらも大事なこと。完全に板挟みになっていた。
そんなある日。
「大丈夫ですから、しっかり休みを取ってください」
校長の窮状を救ってくれたのは、学校の先生たちだった。ただでさえ人手が足りない学校現場である。仕事がさらに増えてしまう運動会期間が大丈夫なはずがない。それでも教頭を始めとした先生たちは頑として譲らない。「立派な運動会を楽しみにしていてください」と。
不安よりも部下たちに過剰な責務を負わせてしまう負い目を感じつつも、親の介護期間を取らせてもらった。
無事に休職期間を終えて迎えた運動会。
それは完璧と言えるもので、トラブルはありつつも、全員で一丸となって成功させてくれた。なによりも終わったあと職員室で教頭から言われた。「楽しんでいただけましたか?」とその笑顔が心に刻まれたそうだ。
そのときに校長は心底思った。
人はひとりでは生きていけない。人が助け合う力は偉大だと。
かなりありきたりな結論ではあるが、そのときの校長の感極まった話しぶりと相まって、不覚にも泣きそうになってしまった。校長の話否定論者である私としてはここで涙腺を緩める訳にはいかないという強い信念でなんとか耐えた。ちなみに隣の奥さんは泣いてた。素直でよろしい。
続く市議会議員の挨拶。これは正真正銘のカス。
通り一遍の型にはまった文章を読むだけ。Chat-GPTの性能でも試されてんのかと思った。それくらい無味無臭の挨拶。
さらにはPTA会長の挨拶。
この方も色んな想いがあったようで、用意してきた原稿を読めないぐらい感極まってしまっていた。
これには思わずもらい泣き…となるかと思いきや、なんか「こんな正式な場で泣いちゃう私」みたいなスケベ根性が透けて見えてしまって、全然白けてしまった。
本当に泣いてたんだったらごめん。こっちはもうPTAという冠がついてるだけで嫌悪感を抱くバケモンになってるからさ。PTA役員は来世の私がやるよ。もし人間だったらね。
締めは卒業生代表の言葉。
これは会場中が涙を誘われた。
コロナ禍の影響をほぼ全学年で受けた世代だから、経験した出来事のひとつひとつに大きな傷跡が残っている。それでも生きていくしかない。受け入れるしかないと宣言する子供の姿は、不憫でもありながらとても輝いて見えた。
で、卒業式での最大の感動は終わったあとにあった。
式典が終わり、校庭で写真撮影。クラスで集まって先生にプレゼントを渡したりする。
あとは校門を出ていくだけである。
そこで担任の先生から最後のメッセージがあった。
先生はみんなの顔をゆっくり見渡した。
先生にも色んな想いがあったようで、今にも泣きそうなをしている。
無邪気に笑顔を向ける子供たち。どんな話をするんだろうと見守る保護者たち。
沈黙が続く。遠くで別のクラスの笑い声が響いてくる。
大きく息を吸った先生の言葉は、とても簡単なものだった。
「あの校門を出てみんなは遠く離れていきます。
きっとみんなはこれから、色んなツラい思いをすることでしょう。
想像もしていなかった世界を見ることになるでしょう。
でも先生は遠く離れていくみんなの背中に、
ずっと
ずっと
ずっと、
エールを送り続けます。
卒業おめでとう」
たったこれだけの言葉。
でも保護者たちボロ泣き。瞬殺。
校長や卒業生代表のように、多くを語り物語を紡ぐのとはまるで違う言葉だ。まったく論理的でもない。
なのに先生が繰り返した3回の「ずっと」に言葉にならない想いが込められていて、生徒たちとの日々や、彼らに対する大きな愛、そして未来を照らす力を感じてしまった。理屈じゃなく。
なんならこうやって思い出して文章に起こしながら涙が出てくるぐらいに、あのスピーチは凄かった。たぶん一生忘れないと思う。
結局、伝わるのは関係性
学生時代の私は式典が嫌いだった。つまらないから。
でも大人になって思い知った。物語が見えるようになると抜群に面白くなるのである。
きっと子供の頃の私にはそこまで文脈を捉える力も視点も無かったのだと思う。
つまり人に伝えたり、ウケるためにはある程度の文脈の共有化が必要で、物語を作ることが大事なんだなぁと感じた。これは言い換えると関係性である。
だから新卒との関係で色々と悩みはするけれど、少しずつ言葉を交わしながら積み重ねて、互いの間で物語が作られるのを待つべきなのだろうと思ったりしたのである。
ちなみにだが、その理論通りで何の関係性も物語も紡がれていない中学の入学式は死ぬほどつまらなかった。なんだあれ。
以上。