ショックな出来事
先日、うちの小学2年生になる息子がこんなことを言っていた。
「パパ、ブサイクな女って気持ち悪いよね?」
最悪なセリフである。呆気にとられて彼の顔を見たが、逆に私のリアクションに戸惑っているようだった。罪の意識があるようにとても見えず、素直に思ったことを聞いただけ、という感じだった。
一体どんなつもり聞いてきたのかさっぱり分からないのだが、美醜の問題が幼い頃から根ざしていることを痛感させられるともに、自分の子供に「美しくない=不快」の図式が自然と形成されてしまっていることに若干の絶望感を味わった。
そんなことを言っている息子も、それこそ私だって、さすがに自分の顔を「醜い」と断定するほど自虐的にはなれないが、美醜の価値観で言えば大したものではない。でもそれでも「ブサイクを下に見る」という行為を、日常的に行なっているのだ。どの面が言うという感じだが、「どの面が」とか思ってしまう時点で、私も十分に美醜に取り憑かれている。
顔の造作で判断されすぎ
なんの努力も人間も関係のない、生まれつきの顔の造作で人の価値が決められてしまうのは、明らかに間違っている。
美しい人を讃えるのはまだ許せるが、醜いと蔑まされるのは到底許容できない。このような考えを突き詰めていくと、ディズニー否定論者(※)みたいになっていくのだが、その気持ちは分からなくもない。
※美人ばかりが幸せになる構造をしているので、見た目の差別を助長していると、ディズニーを批判している。
生まれながらに持つ不平等というのは美醜以外にもたくさんあるけれど、それでも美醜はあまりにも露骨というか、心にダメージを与やすすぎるように思う。
もっとどの顔も個性として自然に受け入れられないものなのだろうか?
例えば私の子供3人は、それぞれ個性的な顔をしていて、あまり美形ではない。しかし真ん中の長女だけやたらと整った顔立ちをしている。他人からも「人形みたい」と何度も言われている。美醜で言えば明らかに差があるのだが、親の私からすればどの子も等しく可愛く、それぞれに感じる愛しさの種類が違う。
これが他人にも同じように感じられたら、と思う。
何が違うのか?
美醜だけで簡単に相手の価値を決めつけてしまう他人と、そうではない家族との一番の違いは、相手の存在を無条件で認めているかだろう。
私は自分の子供たちの存在を100%肯定している。どんな見た目だろうが、性格だろうが、どんな成功をしようが失敗をしようが構わない。生きているだけで肯定している。存在の尊さの前では美醜の問題はあまりにも小さい。
別の例を挙げよう。
私の職場には小人症を患っている人がいる。
最初に入社してきたときは、正直どうやって対応したらいいのか分からなく、腫れ物を触るように接していた。
しかししばらく時間を共にし、仕事で色んな困難を共に乗り越えていく中で、見た目なんぞどうでもよくなった。というか、完全に見慣れてしまい、小人症の見た目が完全に個性としか感じられなくなってしまった。
私は自身のこの変化がとても嬉しかった。偏見を、たったのひとつだけかもしれないが、完璧に克服できたのだから。
間違いを認められたら
美醜の価値観が自分に備わってしまい、それによって人を讃えたり蔑んだりしてしまうのは悲しい。
しかし、少なくとも私はそれを「悲しいことだ」と自覚できるような幸運に恵まれた。人によってはそんなことに一切疑問を感じずに生きている人だってたくさんいるのだ。「ブサイクな女って気持ち悪いよね」と自然と語った私の息子のように。
だから私は自分に根付いてしまった価値観と戦いながら、見た目だけで相手の価値を決めるような人間にはならないように生きていきたい。
間違いを認められたなら、人はいくらでもそこから成長できるから。
そしてもちろん、私の息子にも時間をかけて理解させてあげられるようにしたい。人を無条件で認められれば、同時に自分を認めることだってできるようになるのだから。
以上。