俺だってヒーローになりてえよ

何が足りないかって、あれだよあれ。何が足りないか分かる能力。

不快さと面白さがすごい。百田尚樹『モンスター』

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どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

日本でも有数の嫌われ者作家百田尚樹の『モンスター』を読んだ。美容整形を題材にし、映画化もされている作品で、知っている方も多かろうことかと思う。

 

作品の率直な感想は、

 

くそ面白え

 

これである。

 

色々と言われがちな百田尚樹だが、やっぱりベストセラーを連発するだけの力量は間違いなくある。私は作品さえ高品質であれば、作家がどれだけ下劣な人間だとしても犯罪者だとしても構わないタイプなので、作家がメディアに対してどんな暴言を吐こうが一向に気にしない。むしろ存分に嫌われてもらって、自分だけがその楽しみを知っている作家になった方が希少価値が付加されて堪らない。

 

内容紹介

 

 

田舎町で瀟洒なレストランを経営する絶世の美女・未帆。彼女の顔はかつて畸形的なまでに醜かった。周囲からバケモノ扱いされる悲惨な日々。思い悩んだ末にある事件を起こし、町を追われた 未帆は、整形手術に目覚め、莫大な金額をかけ完璧な美人に変身を遂げる。そのとき亡霊のように甦ってきたのは、ひとりの男への、狂おしいまでの情念だった——。


多分だけど、百田尚樹は「言ってしまう人」なのだと思う。

人が思っていても口になかなかしないことを、意図的なのか無自覚なのかは知らないが口にしてしまう。

それゆえに多くの人から批判に晒されやすいし、嫌われやすいのだろう。多くの人は、百田尚樹よりももっとブレーキが効くようにできている。

 

百田尚樹の『モンスター』には、美醜の価値観に取り憑かれた人間たちの様相が、これでもかと描かれている。『モンスター』に出てくる登場人物たちの漏れなく全員が、美しさに魅了され、醜さを蔑んでいる。そんな価値観に翻弄されている彼らは、とても醜くい。百田尚樹の「みんなこうでしょ?」という価値観がありありと表現されているように感じるし、実際誇張はあるものの、現実にその傾向はある。

 

誰もが取り憑かれる「美醜問題」

作中で書かれていた話なのだが、人が顔の造作について判断できるようになっていくのが、4才から7才ぐらいなのだという。

綺麗な女性と不美人な女性の写真を見せて「どちらが綺麗か?」と聞くと、4才頃だと正解率が5割ぐらいだったのが(正解と言ってしまっていいのかは甚だ疑問だけれど)、7才になると9割を超えるようになるという。

つまり幼い頃から私たちは人を「綺麗か、そうでないか」と判断するようにできているのだ。

この習性を利用して、メディアを主にして多くのビジネスが展開されている。美しさはお金になる。人生においても、美しさで得られるものは数多くあるだろう。シンデレラだって美しいからこそ王子様を射止めることができた。美しさは美談を生みやすい。「美しすぎる〇〇」なんていうのは最たる例だろう。

しかしそれは同時に、生まれ持った醜さによって悲劇を生みやすいとも言える。

美しさは醜さとの両輪である。すべてが美しかったら、美しいという概念は存在しない。醜さがあるからこそ、比較対象として美しさがありえる。どちらか片方だけで存在することはできない。

口にはせずとも誰もが「この人は美人、この人は不美人」と判断を下してしまう。そういうふうに私たちはできている。

 

面白い小説って?

見事に私のツボにハマった『モンスター』だが、こうやって面白い小説に出会うとたびたび私は同じようなことを考える。「なぜこんなに面白いと感じてしまうのか?」と。

「面白さ」というものには自分自身を知る手がかりのようなものが含まれているように思えてならないから、ついつい考えてしまう。私が読書ブロガーとしてこうやってレビューを書いているから尚更かもしれないが。

 

思うに「価値観を刺激するもの」がかなり強い要素になっている気がしている。

これがすべてではないだろうが、私がのめり込むように読んだ小説の多くに、私自身の価値観を刺激するものがあった。

 

『モンスター』でえぐり出される美醜の問題はまさにである。

美醜によって人を差別する登場人物たち。とても“醜い”彼らは、フィクションの存在でありながら、私自身を見ているかのような気持ち悪さが付きまとう。

畸形と言われるまでに不美人である主人公を蔑む彼らを不快に思うと同時に、自分自身に「だったらお前はどうなんだ?」と感じずにはいられないのだ。

 

はっきり言って、『モンスター』は不快な物語である。主人公は多額を投じた整形手術によって絶世の美女に変身したが、幸せになれたかと言うと、疑問が残る。彼女自身がどう感じていたかは読めば分かるけれど(ネタバレになるので、言及は控える)。

 

美醜の価値観によって生まれた悲劇を生々しく描くことによって、読者に切っ先を突きつける。その緊張感や不快感が、読者に真剣さを生み出す。ゆえにリーダビリティも上がる。快不快ではなく、熱中させることで「面白い」と思わせる。

価値観を刺激することで、面白さが生まれる理由を『モンスター』を読んで、少しわかった気がする。

 

本当の“モンスター”

『モンスター』は主人公の蔑称である。畸形的なまでに醜い見た目と、地元で起こしたとある事件を理由にそう呼ばれるようになった。

醜いモンスターをじっくり描く作品にありがちだが、基本的には悲劇である。彼女は自身の醜さゆえに、モンスターとなったかもしれないが、作品を通して読み、存分に彼女に感情移入した私からすると、彼女をモンスターとして見ることはもうできない。

 

不快さの象徴がモンスターなのであれば、見た目の醜さなんてのは、レベルとしてはとても低く感じる。それよりも、美醜の価値観に囚われた、彼女の周囲の人間たちの態度や行動の方がはるかに醜く不快である。

きっと百田尚樹があえてそう書いているのだろうが、『モンスター』で描かれている本当のバケモノは、登場人物たちや私たちの中にある「美醜による差別意識」に思えてならない。

 

***

 

文章に深みがないとか、批判の多い百田尚樹だが、私が彼の著作をいくらか読んだ素直な評価は「面白さでぶん殴れる作家」である。

先程も書いたように、彼の筆は我々が口にするのをはばかるようにことまで書いてしまう。それを不快に思えてしまうのも当然で、不快なものを目にすれば批判したくなるのも当然である。

しかし、私は『モンスター』を読みながら確実に不快だったけれど、間違いなく「のめり込んだ」のである。

気分のいいものだけが面白さではないのだ。


以上。