どうも、超中間管理職ブロガーのひろたつです。100人を超える部下に囲まれて、毎日ひいひい言っています。よろしくどうぞ。
苦手なことはしなくてもいい?
最近ネット界隈を見ていると、「苦手なことを無理してやる必要はない」というような言説をよく見かける。
「得意な人にやらせた方が効率的」
だとか、
「苦手な人がやっても、疲弊するだけ」
「人生はもっと楽しく生きられるもの!」
といった理由がよく語られている。
もちろん人生はその人それぞれのものであり、わざわざ苦しい道を選ぶ必要はないだろうし、好きに生きればいいと思う。
選択肢はいつだって無限である。無限に思えないのは、その人の視野が狭くなっているからに他ならない。
だが、私の経験上で言わせてもらうならば、苦手なことからは逃げるべきではない。
もう少し柔らかい言い方をするなら、逃げるのは得策ではないと思う。
苦手はコンプレックスに成長する
その理由は非常に簡単である。
苦手なことは、放っておくとコンプレックスになるのからだ。
苦手なことが、「苦手なこと」で済んでいる時点ではまだ救いようがあるのだが、コンプレックスにまで成長してしまうと、人は戦えなくなってしまう。向き合うことさえできなくなってしまうのだ。
これは人生の自由度を下げているのと同じだ。
人生にはたくさんの可能性があって、あらゆる道があるはずなのに、コンプレックスという行き止まりがあることで、その道が見えなくなってしまうのだ。自分で自分の可能性を閉ざしているのだ。
私はこれまで数百人の部下を育ててきたので、コンプレックスの厄介さは身に沁みて分かっている。コンプレックスによってキャリアを伸ばせなくなった例は、よく見かける。
諦めた回数が老いを作る
歳を重ねた人ほど成長できない理由もここにあると感じている。
生きていく中で色んなコンプレックスを作り上げてきた人は、挑戦することをせず、自分を変えることができない。当然、成長もできない。むしろ着実に劣化していく。
こういう人は、総じて諦めグセが付いているものだ。
苦手なことや、やったことがないことにチャレンジできる人は、その経験を糧に成長できる。
こういう人には若さがあってそこに年齢は関係ない。
楽しいことだけをして生きていければ、そんな素晴らしいことはない。
だがしかし、本当にそんな人生が存在するのだろうか?
やりたいことだけで人生が埋まるようなことがありえるだろうか?
人が自分の都合だけで生きていければ、それも可能なのだろうが、社会で生きている限り絶対に「やりたくないこと」や「苦手なこと」と向き合わなければならない瞬間がやってくる。
人と関わるのが苦手だった私
私は以前、人前で喋るのが苦手な人間だった。というか、そもそも他人と話すこと自体が苦手だった。
学生時代はほとんど友人と呼べる人間がおらず、黙々と本を読み続けていた。
自分の顔が嫌いで、そもそも他人から見られる、ということが苦手だった。自分の醜さを注視されているような被害妄想を抱えて生きていた。
そんな人間が今では、100人以上の部下を抱え、人前でもそれなりに堂々と喋れるようになった。
もちろん最初から上手く行っていたわけではないし、最初に5~6人程度のチームのリーダーになったときも、人前で喋ることから何度も逃げていた。喋ってすむことを、わざわざ書面に起こして渡すなどして、なんとかしのいでいた。
でも限界があったし、リーダーの逃げる姿勢は確実に部下に伝わる。次第に部下の心は私から離れていった。
周りにたくさん人がいるのに、自分一人だけになったような感覚。自分がいなくても勝手に職場が動いてしまい、自分が必要とされていない状況。
最悪だった。
しかしそれは私が招いた事態だった。
変わるためにもがく日々
そんな苦い経験があったから、私は少しずつ他人とコミュニーケーションを取ることにチャレンジしてきた。
どうやったら話を聞いてもらえるのか?
相手を取り込めるか?
笑わせられるか?
考えてもらえるか?
影響を与えられるか?
考え続けて、実際に試してみて、上手く行ったり失敗したりを続けながら、ひとつずつ、少しずつ私は変わっていった。俗に言う成長、というやつだ。
失敗したときは恥ずかしいし、チャレンジしたことを後悔するときもある。思慮の浅い自分を責めるときもあった。というか、未だにある。
でも私たちは都合のいいことばかり見ていられるファンタジーの世界で生きているわけではない。
いいことも悪いことも、得意なことも苦手なことも混じり合った、この複雑な世界で生きている。
だから自分の苦手にも向き合っていく。得意になろうとまでは言わないけれど、こなせる程度まではレベルアップしたい。
目的はなんでしたっけ?
それに、得手不得手とかよりももっと大事なのは、「どこを目指しているか」である。
大きな目標のためであれば、やりたくないことや苦手なことだって、結局は「やりたいこと」になるのだ。
もうちょっと卑近な例を挙げるならば、食事である。
食事は多くの人にとって好きな時間だと思うが、食べれば後片付けが待っている。
誰かが片付けてくれるのであればいいが、常にそうもいかないだろう。
そう考えると、後片付けだって食事のうちなのである。
でもそこだけを切り取って「後片付けは苦手なんだよなぁ」と思ってしまうのは、ちょっとわがまますぎるだろう。
嫌だと思うその気持ちが、単なるわがままなのか、それとも自分の人生において「必要ないこと」なのか。
そこは見極めるべきだと思う次第。
以上。