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「やりがい」がストレスのことだと分かっている人は少ない

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やりがいとストレス

ここ最近の世の中を見ていると、ストレスの存在を非常に嫌う傾向にあるように思う。まるでストレスが諸悪の根源かのような扱いである。もちろん人は過度なストレスで壊れることがあるし、実際私だってストレスで鬱に近い病気に罹った経験がある。

しかしながら「好きを仕事に」という言葉から受けるような「ストレスのない人生」みたいな安易なイメージもどうかと思う。というのも、そもそもストレスというのは「やりがい」とイコールだからだ。

 

ネットで「やりがい」について調べてみると、以下のように記されている。

 

事に当たる際の充足感や手応え、張り合い。

 

少し想像してもらえば分かると思うが、なんのストレスもなく成果を得ても、まったく充足感も手応えもない。そこにあるのはただただ「幸運だった」という快感だけである。単に射幸心が満たされているだけだ。

つまり多くの人が勘違いしている「ストレスのない生活」というのは、幸運が勝手に降ってくるような、例えば宝くじに当たるような生活を望んでいるのと同じであり、到底やりがいのある人生とは言えないのである。

 

ギャンブルとゲーム 

宝くじの例を出したばかりで申し訳ないのだが、そういう意味ではギャンブルというのは、なかなか難しい。

というのも、ギャンブルにはほどよくストレスが配置されていて、人間の射幸心を煽るようにできているからだ。たまに引いた当たりで得られる感覚は「やりがい」に近いものがあると思う。結局はやりがいも快感には違いない。

ゲームも似たようなものがあるかもしれない。誰かが仕組んだ擬似的な「やりがい」の上で踊っている。定期的に得られる快感のために膨大な時間を費やす。

もちろんそれが悪いとは言わない。ゲームに熱中して人生を費やすのだって、ギャンブルに燃え上がりまくって、結果燃え尽きるのも、その人の自由だ。立派に生きることだけが人生ではないし、そもそも立派とは他人に自慢することではないはずだ。他人からどう思われるかを考えている時点で、立派とはかけ離れている気がする。

 

簡単と難しい 

例えば「1時間に1回スイッチを押す」という仕事があったとしよう。非常に簡単だ。待ち時間の間は何をしていてもかまわない。これならストレスは皆無だ。

その一方で「100人の中で一番売上を稼ぎなさい」となれば、これはかなりの負荷がかかる。しかし達成すれば充足感を得られるだろう。それに、挑戦している最中に得られるものだってあるはずだ。人生というのはよくできていて、本気でやると必ず何かしらの学びがあるものなのだ。それだって「やりがい」のひとつである。

 

要するに人は「ストレス」と「開放」というひどく単純なこのふたつの落差によって、やりがいを得ているのである。

そのやりがいをギャンブルやゲームから提供してもらうのか、それとも自らで作り出すかの違いは非常に大きいと思う。これはつまるところ、自分自身の幸福を「提供されるか」「自給するか」の違いになるのだ。

 

他人に用意してもらったもので楽しむのも構わないと思う。それで満足できれば良い。

しかしながら、人はいつまでも用意されていたもので満足できるほど、愚かにもなれない。いや、もしかしたらずっと満足できないぐらいバカなのかもしれない。どちらだろう。

今を生きる私たちはすぐに目の前の結果ばかりに意識が向きがちである。だからすぐに怠けたり、妥協したりする。

できることならば、常に未来の自分を想像し、「どんなことに人生を消費するべきか?」を考えられるようになりたいものである。

 

以上、自戒を込めて。