つまらない上司
どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。
職場でつまらない上司がいる。
彼がひとたび口を開けば、周囲は一斉に黙り込む。なまじ会社の中でそれなりの上役を務めているだけに、周囲の人間は彼に対して「つまらないですよ」と言うことができない。
私はつまらない話を聞くと身体がムズムズしてきて、その場にいられなくなるという持病がある。ゆえにその上司がやってくるだけで、条件反射的に身を隠すようになってしまった。彼と話しても何も得るものがないからだ。むしろ無駄に私の人生を蝕まれるだけである。
その上司がなぜそんなにもつまらないのかと言うと、彼の口から出てくるのは、常に「昔話」と「自慢話」だけなのだ。
何かにつけて自分がどれだけ過去に偉業を成し遂げたか。昔と今ではこんなに違う。
そんな話ばかりだ。聞き飽きているのもあるが、それよりもウンザリしてしまうのは、その上司がいつまでも変化がないことだ。ずっと上司は過去の中で暮らしている。
スポンサーリンク
面白い上司
逆に常に面白い上司がいる。
彼がひとたび口を開けば、周囲は一瞬で笑顔になる。その上司がいるだけで場にエネルギーが満ちてくる。
その上司が常に笑い話をしているかと言えば、まったく違う。それでも彼と話すと「面白い…!」と思わず唸ってしまうような気分になることが多い。
そしてその上司はどんな話をしているかと言えば、常に「今」や「未来」、そして「反省」である。
今現在、どんなことに関心があって、どんな未来を思い描いていて、どんな経験をして学んだのか。それを聞くと私の心は活性化される。未来への原動力を貰ったような気分にさせてもらえる。
こうやって比べてみるとよく分かるが、私が問題にしているのは、つまらないかどうかよりも、「その上司と接することで、得ているのか、失っているのか」ということみたいだ。
エネルギーは枯れても、承認欲求は枯れない
人は老いる。いつまでも高いパフォーマンスを出せるわけではない。
どんな成功体験を積もうとも、いつかは何もできなくなるときが来る。
人は少しずつ諦めていくのかもしれない。何もできなくなり、そもそも何もする気が無くなっていく自分に対して。
でも人との繋がりは保ちたい。そして自尊心を刺激してもらいたい。だから過去の栄光を語る。昔話に花を咲かせる。部下たちは追従笑いをしてくれる。それによって承認欲求が満たされるのだろう。
何かを始めるエネルギーが無くなったのに、承認されたい欲求は無くならないというのは悲劇的でなんだか笑えてしまう。
成果に見惚れるとき
成果を確認しているときというのは、手と思考が止まりがちである。
これは分析している、という意味ではなく、単に成果を見て満足している状態のことである。「よくこれだけの結果を出したなぁ」とか思っているときは、たいがい脳みそが空っぽになっている。アホ丸出しになっている。
その一方で何か新しいことに挑戦しているときというのは、いちいち成果を味わっているような無駄な時間を過ごさない。いかに成果を出すかに集中している。
登山に例えるとよく分かるかもしれない。
登頂したときは満足感に包まれ、自分が登ってきた道のりを感慨深く眺めてしまうことだろう。よくぞここまで来た、と自分を褒めてしまうかもしれない。もちろん、そんな高みまで到達したことは他人から賞賛されるに値するだろう。
しかしこれが「昔、登りきったことがあるんだよ」となると、途端にみすぼらしいというか、輝きが消え失せる。その過去の栄光を否定するつもりはないが、「でも今のあなたじゃないでしょ?」と言いたくなる。
また、今まさに登っている最中、というのは素敵である。応援したくなるし、なんなら挑戦しているその姿は少し羨ましいぐらいである。
戻ることはできない
毎度のように書いていることだが、誰がどんな生き方をしようと別に文句はない。
ただ私は、過去の話でしか盛り上がれない人とは一緒に楽しめないし、何よりも私自身が未来へと驀進中なので、相手にしている時間なんぞない。やることだらけだ。もちろんやらされることではなく、やりたいことだ。
登ってきた道のりを眺めている時間は気持ちいいかもしれない。成果を出すことは難しかったとしても、過去の成果を思い出すだけならとっても簡単。インスタントにできてしまう。
でもその間にも、人生という列車は止まることなく終点へと向かっている。思い返している時間も、前に進んでいる時間も等しく誰の身にも加算されていく。
振り返ることはできても、戻ることはできないことをみんな分かっているだろうか。
以上。