みんなお金の話が好きだよね。
お金のやり取りが流行っているらしい
どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。
先日ヤフーニュースで“polcaおじさん”なるものを知った。
なんでも、オンライン上で「〇〇をしたいから誰かお金をください」とつぶやくと、見も知らぬ他人が恵んでくれるというサービスがpolcaなのだとか。そして、そのサービスで見知らぬ他人に自ら進んでお金をばら撒く人を“polcaおじさん”と呼ぶらしい。
そもそもこの“polca”というサービスは“CAMPFIRE”で知られる家入さんが始めたものだ。非常に彼らしいサービスである。
なんとも私には無縁なのでここでそのサービスの是非について問うつもりは毛頭ない。みんな自由に生きてていいなぁ、という感想を抱くぐらいである。
で、問題はそんな「他人同時のお金のやり取り」が気に食わなくて仕方がない人がいることだ。
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「なんとなく不快」と書かずにはいられない
私が読んだ“polcaおじさん”の記事では、実際におじさん本人に直接インタビューを試みていて、どんな理由から寄付をしているのか、その金額などを聞き出していた。
それに対して、非常に多くのコメントがついていた。そのほとんどが「なんとなく不快」というものだった。私はびっくりした。なんだこの不快なコメントたちは。
誰が記事に対してどんな感想を抱こうが構わないが、それよりもそのコメントを書いている人たちがまるで「自分が不快になったから、これはダメだ」と言わんばかりなのが困る。知らんがな、という話である。
それ以外にも「よく分からない」とか「意味が分からない」とか「違和感がある」なんていうコメントもあった。
私からすると、わざわざそんなウンコメを書きたくなってしまう神経が理解できない。
いや、実は分かる。どうせあれだろ。自分がお金を貰える側にも、お金を寄付する側にも入っていないから、とにかく絡みたい一心なんだろう。
人は疎外されることが苦手だ。だから、友好非友好を問わず、とにかく自分の何かをぶつけずにはいられない。まるでウンコを投げつけてくるチンパンジーと一緒である。でもチンパンジーは握力が300kgとかあるから、それを加味したら、ウンコメをしている彼らよりも優秀かもしれない。だって、無いでしょ握力300kg。
感情と意見はまったく別物
ネットだけに限らず、感情と意見を混同してしまう人は多い。それは「自分が不快」であることが社会(または集団)にとって重要なことだと勘違いしているからだろう。
小学校で「〇〇さんが可哀想です!」などと叫ぶ子供と同じ感じである。だから何だよと思ってしまう。
大人なのであれば、いや、他人に影響を与えたい、何かを変えたいと思うのであれば、理由や根拠、対案を出さなければならない。ただ単に「不快」と叫ぶだけでは相手を同じく「不快」にさせるだけである。そんなに世の中を不快だらけにしたいのか。悪魔みたいな奴らである。
もしかしたら甘えも含まれているのかもしれない。
自分でどうしたらいいかは分からないから、とりあえず「自分は不快になってまーす」と宣言しておく。そうすれば、誰かしらが動いてくれる。変えてくれる。そう思っているのかもしれない。赤ん坊が泣きわめいて親を動かす構図とまったく同じである。パンパースでも着けてろ。心の中にな。そうすりゃ、余計な感情を漏らさなくて済む。
言えることがないなら黙っていればいい
「意味が分からない」「違和感がある」なんていうコメントを書いてしまう人にも言いたい。
だったら黙ってろ。
分からないのであれば何も言うな。大人しくしてろ。口を挟むな。
「違和感がある」って、だから何だよ。その違和感の正体を明確にしてくれよ。そうすれば、読んだ人に何か影響を与えることができるかもしれないし、新たな問題を浮き彫りにできるかもしれない。発言がぼんやりしすぎである。
なぜ分からないのにそんなに偉そうなのか。自分が感じている違和感の正体も分からないくせに、何を言おうとしているのか。本当にただただ思考を垂れ流しているだけである。
たぶん、受け身な人というのはこういうことを言うのだろう。意見と感情を混同してしまい、世界に価値を提供することを知らない。受けて、反応するだけ。私からするとそいう人たちはゾンビのように見える。
まあそれでも好きに生きたらいいとは思うが。ゾンビなりの楽しみだってあるだろうし。「あ、今日はここが腐り始めてる!キャピッ」とか。
もちろん私はそんな生き方は御免だがな。
以上。