中村文則の全て
どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。今回はなかなか厄介な作品の紹介。
突然自分の前から姿を消した女性を探し、楢崎が辿り着いたのは、奇妙な老人を中心とした宗教団体、そして彼らと敵対する、性の解放を謳う謎のカルト教団だった。二人のカリスマの間で蠢く、悦楽と革命への誘惑。四人の男女の運命が絡まり合い、やがて教団は暴走し、この国を根幹から揺さぶり始める。神とは何か。運命とは何か。絶対的な闇とは、光とは何か。著者の最長にして最高傑作。
まず最初に言いたいことがある。
『教団X』は作家中村文則の最高傑作として紹介されているが、私の認識としてはそれは間違っている。
『教団X』は非常にAmazonで評価が低い。読書芸人で又吉や若林が絶賛してしまった影響もあってクソほど売れたようだが、多くの人には受け付けられなかったようである。
『掏摸』で一躍脚光を浴び、芥川賞も受賞し、そんな彼が放つ最高の作品。
『教団X』はそんな触れ込みで話題になってしまった。
しかし、それは大きな間違いだ。中村文則の最高傑作?これはそんなつもりで読むものではない。
きっとみんなそこを勘違いしているから、あんなにも低評価を連発しているのだと思う。
本の帯に書いてある中村文則のコメントを引用しよう。
「これは現時点での、僕の全てです」
分かるだろうか。全力でも、最高でもなく、“全て”という言葉を使っているのだ。
これがどういうことかみんな分かっていない。
『教団X』は中村文則の全てなのだ。決して全力という意味ではない。大事なことなのでもう一度書く。
『教団X』は当時の中村文則の全てなのだ。
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小説のフリをした作品
一体私が何を言っているのか分からない方も多いだろう。
端的に言うと、『教団X』は小説のフリをした作品なのだ。
では何かと言えば、さきほどから繰り返している通り、中村文則の全て。つまり彼自身を表したのがこの作品なのだ。
『教団X』の中身は非常に多岐にわたっている。そこには数々のテーマを見出すことができるだろう。イデオロギー、道徳、宗教、嗜好、性癖、死生観、戦争などなど、ごった煮にもほどがある。
それゆえにこれだけ長大な作品になってしまっているのだが、これだけ膨大なテーマを抱えているのも、結局はこの作品が“中村文則の全て”だからだ。
つまり、この作品で語られる内容、テーマはもちろんだし、登場人物が語る全て、物語に含まれる全ての要素、感情、それら全てが中村文則という個人に直結しているのだ。
彼自身を切り開いて裏返して出てきた中身が『教団X』だと思ってもらえれば分かりやすいかもしれない。余計分かりにくいか。
『教団X』が生まれたキッカケ(私の勝手な想像)
作品を創る、創造する、ということに対して、どんなアプローチや手法を選ぼうとも、作者の頭脳というフィルターを通す工程だけは避けられないものだ。
どんなアイデアや要素を持ってこようとも、それは作者色に染まってしまうのだ。それが個性と呼ばれるものであり、その作家の味わいになる。まるで悪いことのような書き方をしたが、それが創作の基本であり、大前提だ。ファンはそこに惹かれる。
これはあくまでも私の想像でしかないのだが、きっと中村文則も同様のことを考えたのではないだろうか。
いくら物語を練ろうが、テーマを斬新なものにしようが、結局は自身のフィルターを通した作品しか作れない。
であるならば、いっそのこと「自分自身の中にあるものを全部出してみたらどうなるんだ?」と発想したんじゃないだろうか。
趣味、嗜好、性癖、イデオロギー、死生観、宗教観、道徳、世界の見え方、歴史…といった自分の頭の中にあるあらゆる要素を並べ立てて、ひとつなぎにしてみる。そうしたらどんな作品ができあがるだろうか。作家中村文則を超えた作品がそこにはできあがるんじゃないだろうか。
この新たな発想は創作者にとって逃れられない怪しい輝きを持っている。試してみない訳にはいかない。
そんなことを考え、『教団X』が生まれた。私はそう思っている。
小説でありながら、中村文則という人間そのものである。それが『教団X』なのだ。
異形の作品
もしそうなのであればこれはかなり実験的な小説だ。自らを書いてはいるが、エッセイでもないし、私小説でもない。あくまでもフィクション世界を描きながら、そこに使う画材はすべて己自身の一部なのだ。異形の作品である。
『家畜人ヤプー』という不快極まりない作品をご存知だろうか。
日本人が改造されて人類の下の世話専用になる、という変態を煮詰めたような作品なのだが、これと似たイメージが私の中にある。中村文則という人間を改造し、読めるようにしたのが『教団X』である。この気持ち悪さが伝わるだろうか。きっとそんなんだからこんなにもAmazonで低評価が連発されているのだろう。
ちなみに『家畜人ヤプー』に興味がある方は、マンガ化もされているのでそちらから入ってみてもいいかもしれない。原作の不快さがいくらか中和されている。
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読者のために書かれたのではない
そうやって考えていくと、もしかしたら『教団X』はあくまでも中村文則の表現欲が高じて出てきた排泄物みたいなものであり、読者に楽しんでもらおうなんて思いで書かれたものではないのかもしれない。
例えば、作中で出てくるとある教祖の話。これは非常に長いのだが、途中で何度か章分けされている。しかし内容は完全に地続きになっており、わざわざ分ける必要なんてない。実際、章の題も「教祖の話②」みたいになっている。
私はこれが読者のためにされたものだとは思わない。なぜなら、読んでいて「なんでここで切るの?」と読者であった私自身がその必要性を感じなかったからだ。
思うに、これは中村文則が単にそこで“ひと呼吸”入れたかっただけなんじゃないだろうか。流れるように出てくる教祖の話。その奔流を一度堰き止め、「ふう…」と一息つく。そしてまた書き始める。息が切れただけ。ただそれだけの理由で章分けしているように思う。
他にもある。例えばAmazonで酷評の嵐になっている登場人物たち。それぞれに過去があり、思いや悩みがある。または、そんな人間的な感情から超越した存在である教祖もいる。
しかしながら、そんな登場人物が誰ひとりとして魅力的な人物として描かれていいないのだ。
これはエンタメ小説として見た場合、駄作そのものである。魅力的なキャラがいないなんて信じられるだろうか。でもそれが『教団X』なのだ。
それも結局は、中村文則の分身をそこに配置しただけであり、わざわざ読者に共感を得るために配置したわけではないのだ。だからこそ、物語的装飾をほどこす必要もないし、過剰なキャラ設定を作り込む必要もないのだ。すべては「中村文則の全て」を出すためだけに存在する。
こんなことはいくらでも書ける。それらのひとつひとつが、私には答えに思えてならない。「これは僕自身なんですよ」という中村文則の答えだ。
新しいものを生み出すということ
中村文則は偉い。こんなバカな作品を生み出したこともそうだし、こんな実験的な試みをこれだけの熱量を持って成し遂げたこともそうだ。
作品を生み出すという行為は、ついつい商業的な側面ばかりが評価されがちである。「ベストセラー」とか「何万部突破」とか「だれだれが絶賛」とか。
しかし、それよりも大事なことがある。
それは“新たなものを生み出す”ということだ。それこそが創作において、一番大事なことのはずだ。
この世に未だ存在しない、そんな作品を生み出したい。だからこそ作家であり続けるのだろう。金稼ぎが目的になってしまうのは、あまりにも悲しすぎる。
その点、中村文則は勇気を持って新たな作品を生み出した。非常に実験的だ。でも間違いなく今までにない作品になった。私は、ひとりの小説を愛する者として、素直に賛辞を贈りたい。
で、感想は?評価は?面白いの?
長々と勝手なことを書いてきてしまった。断定的に書いている部分もあるが、あくまでも上記のものは私の想像である。もしかしたら全然ハズレているかもしれない。でもそれでもいいじゃないか。私が『教団X』の作りにどんな予想を立てようが、作品の面白さには関係ないのだから。
で、結局のところ『教団X』の感想はどうなの?という話である。御託が多すぎたかもしれない。
簡潔に書こう。
『教団X』の感想、評価、面白いのか。それら全ての質問に対する私の答えはこれである。
凄え。
もうね、こんなに圧倒的な作品に触れたら、感想とか評価とか、面白いとか面白くないとかそんな枠には収まらない。ただただ「凄え」。それだけ。
この作品に漲るパワー。濃度。熱量。それらが感想や評価といった些細なものを吹き飛ばしてくれる。
そして『教団X』はそういう楽しみ方が一番合っていると私は思う。
こんな新しい作品に対して、みんな既存の楽しみ方を求め過ぎである。
以上。
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