気遣いされるのが嫌いだ。
言っておくが私は別に老人ではない。気遣いをしてくる若者を捕まえて、「老人扱いするな!」と怒り狂っているわけではない。単純に気遣いされるのが嫌いなのだ。
気遣い反対派
どうやらそんな私は少数派らしい。だって見渡してみると、基本的に世の中は気遣いが素晴らしいとされている。
こんな本が出ているぐらいだ。きっとみんな気遣いできる人間になりたいと思っているのだろう。
仕事も人間関係もうまくいく ANAの気づかい | ||||
|
この本の中にどんなことが書いてあるのか知らないが、気遣いで本当に人間関係がうまくいくのだろうか。少なくとも私は気遣われることが嫌いである。私は彼らの言う人間関係の輪の中にカウントされていないのかもしれない。ありがたい話である。
スポンサーリンク
素晴らしい国、日本
それにしても日本は素晴らしい国だ。そこら中に気遣いが溢れている。
いくら私が気遣いを苦手をしていても、気遣い自体がレベルの高い行為であることは認識している。気遣いができない人よりも、できる人の方が能力は高いと思う。
気遣いをするためには、まず最初に「相手の立場になる」という考えが必要になる。そしてこれが本当に難しい。人の想像力に限界があるし、人間の見方というのはびっくりするぐらい多様性がある。自分のちんけな脳みそではまったく理解が及ばないような人っていうのは、腐るほどいるのだ。
それに、気遣いなんてものをまったくせずに自分のことだけを考えていれば、こんなにラクなことはないだろう。相手のことを考える、なんていうのは負荷がかかるだけだ。
それでも気遣いをする人がいる。気遣いをするべきだと思う人がいる。
素晴らしい国、日本である。みんな誇りたまえ。
気遣いが嫌いな理由
なぜそんなに私が気遣われることが嫌いなのかといえば、答えは非常に簡潔である。
放っておいてほしい。それだけだ。
他人に干渉なんぞされたくない。自分の思いを慮ってもらわなくて結構。
ただし、本当に困っていたら自分からSOSをそれこそ相手が迷惑に思うぐらい出すし、そこにためらいはないだろう。
でも気遣いはまったく違う。気遣いはあくまでオプションのようなもので、必須サービスではない。それがあると嬉しい人もいる、というだけだ。繰り返すが、私のようにまったく必要ないと考える人間もいる。
それにもっと言えば、私は気遣いすることも嫌いなのだ。自分が気遣われることが嫌いな以上、それは当たり前である。なにもわざわざ自分が嫌いな行為を他人にしてあげたいとは思えない。まあこれでも会社がそれなりの立場があるから、人並みには気遣いするけどさ。
気遣い好きな人は、己にも気遣いを求める
別に気遣われることが好きな人を否定しようとは思わない。ただ、気遣い、気遣われることが当前であると押し付けられたくないだけである。
なぜか気遣い好きな人というのは、気遣いは得意でも気遣いされないことにはひどく不寛容である。自分が気遣ったらそれに対してお礼なりなんなりの返しを欲しがる。相手の気遣いを無視した途端、こちらが悪者に仕立て上げられる。なんなの、あの感じ?そっちが勝手にやったことじゃないの?と言いたくなる。
気遣いできる人が揃うと、気遣いに気遣いが重なり、その内身動きが取れなくなる。気遣い地獄である。どうだろうか、皆さんの周りにもそういう方がいないだろうか。
そもそも人は基本的に他人に迷惑を掛けてしか生きられない。どんなに気遣いしようが、周囲の人間に負荷を掛けずにはいられないだろう。
勝手な正義の話
私は気遣いし合える世界よりも、放っておいてくれる世界の方が素晴らしいと思う。というかラクだと思う。
他人のことにいちいち腹を立てず、自分のことに集中し、少しぐらい迷惑を掛けられても、「お互い様」だと寛容でいたい。良い意味で放っておける関係が良い。
これはあくまでも私の正義であり、他人に強要しようとは思わない。理解されたいだけである。
以上。
1秒で「気がきく人」がうまくいく | ||||
|