どうも。ポンコツ読書ブロガーのひろたつです。おっさん街道を驀進中です。
感動作中毒
おっさんになったせいか、最近、本当に涙もろくなったし、やたらと感動作みたいなのが読みたくなる。素晴らしい物語に触れて、素直に涙を流すと相当なストレス発散になるので、「年を取って良かったな」と思ったりする。
そうなると、もっと他にも感動作はないかと漁りだしてしまうのは、本好きの悲しい習性であろう。なかなか最強の一冊だけで満足できるほど悟っていないのだ。溢れ出る読書欲はとどまる所を知らない。
で、グーグル先生に感動作を調べて貰うと、大抵出てくるのが浅田次郎の名である。
実は私はベストセラー作家というのが苦手である。わざわざみんなが読んでいるものを読む、ということに価値を感じない癖がある。悪癖だと思う。ただし、売れっ子になる前に目をつけていた場合は、「わしが育てた」と言わんばかりにこのルールは未適用となる。我ながら勝手なものだ。
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浅田次郎の名作
だが、そんな私でも浅田次郎の作品は過去に読んだことがある。一度くらいは経験しておこうと思ったわけだ。その時に選んだのが、こちらの作品。
鉄道員(ぽっぽや) (集英社文庫) | ||||
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言わずと知れた感動作だ。表題作の『鉄道員』は映画化もされ、高倉健の「自分、不器用ですから」のセリフが有名である。
またこの作品は、本好きが集う2ちゃんねるの書籍板でも評判が良く、特に収録作の中でも『ラブ・レター』は大絶賛だった。
ネットの書き込みはかなり大げさになることが多いので、話半分に受け取りながらも、これだけたくさんの人が魅了されているってのは、それだけの力を持った作品なのだろうと期待せずにはいられなかった。
後に気付くことになるのだが、この期待が貴重な読書体験を散々なものにしてしまった。やはり読む前のハードルはできるだけ下げるか、無心で読むのが一番である。
『鉄道員』は私にとって凡作中の凡作だった。読みながら心がまったくなびかない。
あれだけネットで評価されている作品なのだから、きっと私の感性がダメなのだと思い、「なんとかして感動するんだ!」と自らを叱咤してみたが、感動できないものはできない。ムリなものはムリだった。
作中で繰り広げられる人間模様が、お寒くて仕方なかったのだ。
リベンジに燃えて撃沈
そして、私が『鉄道員』で強烈な不発を食らってから10年以上が経った。私もそれなりに年齢を重ねたし、家族もできたし、以前とはかなり感性も変わった。
今こそ浅田次郎に再チャレンジするときだと思った。
熟考に熟考を重ね、リベンジする作品は『椿山課長の七日間』にすることにした。
椿山課長の七日間 (集英社文庫) | ||||
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大手デパート勤務の椿山和昭は、ふと気付けばあの世の入り口にいた―。そこは死者が講習を受けるSACと呼ばれる現世と来世の中間。身に覚えのない“邪淫”の嫌疑を掛けられた椿山は再審査を希望し、美女に姿を変えて現世に舞い戻ることに。条件は三つ、七日間で戻る、復讐をしない、正体を明かさない。無事に疑いを晴らし、遺り残した想いを遂げられるのか!?ハートフルコメディー小説。
内容はまったく知らなかったが、タイトルとあらすじから察するに、明らかに泣かせに作品だと思われる。そして、きっと家族を持つ人間にとってはどストライクの作品であろう臭いがプンプンした。
結果どうなったかと言えば、この記事のタイトルの通りである。まったく楽しめなかった。いや、まったくというのは語弊があるかもしれない。作品としては楽しめた部分はあった。笑ったり、ホロリとする部分もあった。
だけど、それよりも以前『鉄道員』で感じたあの“不発感”が胸を占拠している。こんなことを書くと浅田次郎ファンに怒られるかもしれないが、やはりお寒かった。
別にこの作品で感動する人を否定する気はない。むしろ感動できる人は私なんかよりも遥かに清い心を持っていると思う。
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浅田次郎作品の肝
というのも、浅田次郎作品を二作品読んでみた私なりに分かったことがある。
彼の作品の良さ、感動の肝は「無償の愛」にあるということだ。
無償の愛は確かに素晴らしいし、人間として崇高な行為だと思う。
だが、私は人間にとって「無償の愛」というのは、そんなに簡単なことじゃないと思うし、エゴや利己にもがき苦しみながら、「無償の愛っぽい」ものを獲得するのが人間なんじゃないかと思っている。なんなら、本当に「無償の愛」を注げる人には人間味は感じられないぐらいだ。化物だと思う。
泣けるから名作、ではない
私が読んだ浅田次郎の二作品には、共通してこの「無償の愛」を注げる人が登場する。それが肝になっている。きっと浅田作品で涙し、「感動した!」と言っている人は、彼らの存在にやられたんだと想像できる。何を隠そう私も泣いたからだ。
勘違いしてほしくないのは、泣けたからといって感動しているとは限らないこと。悲しみと感動は違う。それに涙なんてのはシチュエーションさえ揃ってしまえば、簡単に出るものだ。そこまで特別じゃない。それは徳光和夫や西田敏行を見ていればよく分かることだろう。
登場人物が天使すぎる
話を戻すが、私は無償の愛そのものには価値を感じない。そこに人間味を見出すことができないからだ。それよりも愛することの難しさに苦しみ、悶え、利己に抗う姿にこそ感動を覚える。
その点、浅田次郎作品に出てくる彼らはあまりにも人間味を失っていて、まさにその存在は天使そのものである。天使に感動することはできんよ。あまりにも存在が遠すぎる。存在感が希薄すぎる。
なんてことを思ってしまう私は、きっと人間を知らなすぎるか、信じていないのだと思う。無償の愛に溢れた人間がいることを認められないのが私なのだ。こればっかりはどうしようもないだろう。私の感受性の問題というよりも、質の悪さに起因しているのだから。
動物に倫理が通用しないように、私には浅田次郎が受け入れられなかったのだろう。そういうことだ。
なのでどうか、この記事を読んだ浅田次郎ファンの方はお気を悪くしないでもらいたい。
人間不信のバカがひとりで勝手に転んでいるだけである。放って置いてもらえれば、勝手に朽ち果てるはずだ。
それとも、こんな私にも無償の愛とやらを注いでいただけるのだろうか?
以上。
椿山課長の七日間 (集英社文庫) | ||||
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