どうも。くされ中間管理職のひろたつです。この場合の中間というのは、腐敗と発酵の中間ぐらいという意味である。
優秀な人間とポンコツを分かつもの
私は職場で100人を超える部下を毎日相手にしている。これだけの人数がいると、ポンコツから天才まで色々な人材がいて、非常に刺激的な毎日を過ごすことができる。ありがたい話である。
ところでそんな毎日を送っていると、優秀な人間とそうでない人間の差は何か?というようなことを考える。言い換えるならば、成長できる人間と現状維持に甘んじる人間の差、だろうか。ちなみに現状維持というのは基本的にありえないので、そういう部下はどんどん退化していく。
このふたつを分ける要素は多くあるだろう。あまりベラベラと語っても仕方ないので、今回はひとつだけ挙げておく。
それが「分からない仕事をできるかどうか」である。
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「分からない」という印籠
仕事していると予期せぬ自体に陥ることがある。計画的に進むことの方が少なく、基本的に仕事はトラブル処理こそが本質だとさえ思っている。そうやって軌道修正することが大事なのだ。
だがこれを理解していない部下が多いこと多いこと。
予想外の自体になり、普段とは違う仕事が発生する。マニュアルにはない事態になる。対処方法も分からない。でもとにかくその問題を処理しなければ何も進まない。
そんなときに、「分からないので」と言い張って上司にすべてを捧げてくるのだ。「これは貴方様のお仕事でございます」と言わんばかりである。いや、確実に言っている。「こんなの分かんないんだから、あんたがやってよ」とその態度が言っている。
そういう部下を見るたびに私は、「お!出ました出ました。無能印籠!」と思っている。
「私は分からないことには手も足も出ない無能です!」と世間に知らしめる印籠をかざしているように見えるのだ。
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分からないことは正義か?
こういう部下は自分が分からないことを、まるで自分が被害者になったかのように語る。「こんな事態に遭遇しちゃった私」と完全に受け身である。
その態度は毅然としていて本当に惚れ惚れしてしまう。人はかくも愚かになれるものだと感心するばかりである。
さて、考えてもらいたいのは、いや疑問に感じてもらいたいことは「分からないってのはそんなに仕方ないことなのか?」ということである。
仕事の難しさを分かっている人であれば言うまでもないが、仕事というのはそもそも殺し合いである。他社との競争、顧客の奪い合い、金の奪い合いである。近い、遠いの差はあれども、金儲けをするときは常に誰からを蹴落として金を得ているのだ。
だって、お金は有限なのだから。
仕事を殺し合いだと考えたとき、殺し合いの最中に相手の攻撃に対して、「分からない」状態というのは正義だろうか?誰かが助けてくれるものだろうか?
企業に雇われている時点でなぜか、「仕事は誰かが何とかしてくれるもの」という認識が生まれてしまうのだろうか。甘すぎる。企業は確かに給料という形で私たちを守ってくれるかもしれないが、別におしめを取り替えてくれるわけではないのだ。
従業員のすべてが心血を注いだ先に、企業というものが成り立つのだ。自分たちを守る城塞が維持できるのだ。
分からないに挑戦する
確かに「分からない仕事」に取り掛かるのは難しい。そこにかかる負荷は普段の仕事の比ではないだろう。今までにない発想が必要になるだろうし、新たな何かを生み出す必要がある。
でもだからこそやる価値があるとも言える。成長のチャンスがあるのだ。
「分からない」は成長の余地であり、企業の価値を高める機会なのだ。
いつまでも「分からない」からと放っておく人間は、いつまでも他人から仕事を貰うだけの人間に成り果てる。環境が変わってしまえば、一瞬でお役御免だろう。少なくとも私は上司としてそういう部下はいらないと感じてしまうだけの狭量さは持ち合わせている。どうもすいません。
かたや、「分からない」に挑戦できる人間はどんどん成長していく。そういう人材は企業にとっての宝であり、いい意味で依存できる関係になる。もちろん場数を踏んだ分、社会人としての経験値も積めることだろう。
というか、そもそも会社から金を貰っている以上、どんな事態になろうとも法律の範囲内であれば、全力を尽くすのが企業人ってものだろう。でなければ犯罪者である。分からないかどうかは関係ないだろう。
以上。好き勝手に書いてみた次第である。
憂鬱でなければ、仕事じゃない (講談社+α文庫) | ||||
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