例えば、治安の悪い場所で暮らしている人は怯えていたり、不安だったりすると思う。
だがその一方で平和を手にした人でも、「いつかこの平和が失われるんじゃないか?」と不安になったりする。
つまりどんな状況だろうとも、不安というやつは己の心が作り出す限り永遠に無くならないということである。困ったものだ。
仕事でも同じである。普段全然仕事をしたがらない部下が突然仕事を手伝ってくれたりする。
素直に感謝すればいいものを、「何か企んでいるんじゃないか?」「でかいミスでも隠してんのか?」と勘ぐってしまう。全然、喜べない。
全ては私の臆病な心が生み出す幻想なのだろうか?
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でも「臆病」と書くと何か悪いことのように感じられるが、「危機意識が高い」とも言える。これは生きていく上で必須の能力だ。
何も考えず、「あぁ自分は幸せだなぁ!」と思って大手を振って生きている人は確かに幸せ者かもしれないが、その振った手が他の人の顔面に当たっていることに気付いていないだけかもしれない。意外とそういう人は多い。非常に迷惑である。
幻想に怯えるのはさすがにムダだと思う。だから次のステップとして「確認」を行なうのだが、これがまた少々面倒だったりする。
確認をするという手間もそうなのだが、一般に「確認」と「疑い」を混同してしまう人が多いのだ。
これは私が職務上、強烈に痛感している。
中間管理職なので、部下に「あれ大丈夫?」と確認することがある。軽く聞いただけなのに、「ちゃんとやってますから!」と思わぬ反撃を受けるのだ。「こいつ私のこと疑ってやがる!失礼しちゃう!」という態度を隠そうともしない。その子からすれば、失礼なやつには失礼で返すという、目には目を方式なのだろうが、こっちは純粋に確認したいだけなのに…。
ということで、人は確認されることだけでも不快になったりするから厄介だ。これは警察に職務質問された経験がある人はよく分かると思う。ちなみに私は経験ないが。
しかし考えてもみれば、信用というやつは疑いと確認の上にしか成り立たないものだ。
世の中のシステムはすべてチェックだったり保証ありきで動いている。あなたの使っているサービスすべてが何かしらのチェックを必要としている。
だがそれがあまりにも生活の中に溶け込んでいるので、表面化した「確認」に触れると「疑われている!」と今更ながら気付くのだろう。いやいや、毎日疑われていますよと言いたい。
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結局何が言いたいのかと言うと、謎に機嫌が悪い奥さんを放っておいても仕方ないので、「何で怒ってんの?」と確認をすると、不機嫌なまま「大丈夫だから」と言われてしまうのだ。
これは本当に大丈夫なのだろうか。チェックをしても分からないこともある。
ということはチェックの仕方が悪いのだろうが、今の私には他に確認方法が分からないので、仕方なく怯えた毎日を過ごしている。
不機嫌な果実 (文春文庫) | ||||
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