どうも。
切り替える若人
仕事をしているとよく嫌なことがある。そのおかげでお金を貰えていると言っても過言ではないので、甘んじて受け入れる訳ぐらいにはおっさんになった私。
だが若い子の場合だとそれはもう辛いことらしく、「何でこんな目に…」的な愚痴をよく聞かされる。
まあその気持ちはよく分かるし、辛い思いってのはすればするほど自分の身に降り掛かった不幸を嘆きたくなるものだ。ヒロイズムに酔うのは女子もおっさんもそんなに変わらない。
で、そんな辛い目にあったときに「でも…切り替えなきゃ!」とか殊勝なことを言っていたりする。
その言葉を聞く度に私は「あぁ、まだ余裕だな」と感じている。
スポンサーリンク
本当の切り替えは意識する余裕などない
例えばあなたが昨日、手ひどくフラれたとしよう。それはもう酷いフラれ方をした。
気分は落ち込み、世界は色を失っている。足取りは重く、すべてが面倒だ。
いっそ死んでしまおうかと街を歩いているとき、突然あなたの目の前にライオンが現れる。
さあ、あなたに「気分を切り替えなきゃ!」とか思っている余裕があるだろうか。
こんなときに切り替えようと考える余裕があるのは、動物園の飼育係とかボリショイサーカスの従業員ぐらいだろう。ただのプロ意識である。
本当にピンチに陥った人間や真剣な人、集中している人というのは、わざわざ自らに切り替えを必要としない。目の前の刺激に対して「いかに対処するか?」を考えるのみである。
「切り替えなきゃ!」とか思っても構わないが、あまり真剣味を感じないのでオススメはしない。
落ち込んでいることを意識している時点で余裕あり
そもそも自分の感情を観察できている時点で余裕があると言える。そこまで追い詰められていないだろう。
自らの感情というのは、一番近くにあるくせに夢中になっているときには存在しないものになったりする。意識する余裕がある人にだけ存在するものだ。
人は誰かが苦しんでいるのを見ると、脳の中で痛みを感じる部分が反応するそうだ。つまり脳の中では「痛み」を感じているわけだ。
しかし、それが「可哀想…」という同情に転化した途端にその痛みは「快感」に変化するらしい。確かに自分の経験を思い返すと、同情心を持っているときは余裕を感じていた気がする。
たぶんこれと同様に、「私、可哀想…」というふうに思うのは気持ちいいのだ。
だから人は落ち込んでいる状態を意識したがる。
私は落ち込んでいる → 私、可哀想 → 気持ちいい! のコンボである。
何も消費せずに快感を得られるのだから、とてもエコである。唯一消費するものといえば時間ぐらいだが、それだって本人のものなのだから好きにするべきである。見方によっては贅沢な使い方と言える。