どうも。
自由ってなんじゃい
こちらの本を読んでいたら何だかモヤモヤしたのでまとめたいと思う。
自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C) | ||||
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ちなみに作品の中身はいつもの森博嗣クオリティ全開で十分に楽しめた。
私がモヤモヤしたのは、周囲で「自由」を渇望する人たちのことを考えたからである。
少しばかり引用させてもらう。
自由というのは、「自分の思い通りになること」である。自由であるためには、まず「思う」ことがなければならない。次に、その思いのとおりに「行動」あるいは「思考」すること、この結果として「思ったとおりにできた」という満足を感じる。その感覚が「自由」なのだ。
なんだか周囲の人の言葉を聞いていると、「自由」=「ラクをすること」というふうに感じる。または「解放される」だろうか。
確かに、日々の作業から解放され、ラクな毎日を過ごすことは自由かもしれない。好きなだけ憧れたらいいと思う。牢獄の中で青空を想像しようが、押し入れの中に宇宙を見ようがその人の勝手である。素敵な人生を過ごしていただきたい。
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ないものねだりでしょ
どうやら「自由」ってやつはみんなが考えるほどラクなものではないようだ。
子供でも知っていることだが、自由を手にするためにはそれと同等の義務を背負わなければならない。また、自由を維持するためにはそれ相応の努力や知恵が必要になる。
自由を獲得している人は人々の注目を集めやすいのか、ネットやテレビなんかでよく見かける。これはやはりそういった情報を欲している人がいるからなのだろう。日々に満足せず、納得もせず、腐ったような目をしながら、どこか遠くの見も知らずの誰かの生き方に憧れる人々が多いようである。
きっとそういう方は自分のすぐそばに、それこそ勇気を出して手を伸ばせばすぐそこに追い求める「自由」というやつがあるように勘違いしている。
「会社を辞めれば」
「人付き合いをしなければ」
「嫌なことをしなければ」
「自分のことだけ考えていれば」
そうすれば他の人たちとは違う生き方、「自由」を獲得できると思っていやしないだろうか。
それは全然違う。
森博嗣は自由になるために、小説でいかにして売れるかを考えぬいた。睡眠時間を削って執筆を行なった。売れるようになってもその生活を続け、100冊近い著作をコンスタントに、そして締め切りを確実に守りながら発表し続け、今の「1日に仕事は1時間」という自由な生活を手に入れた。ちなみに小説で失敗してもいいように別のプランも用意してあったそうだ。
自由を求める人たちはそういったアクションを起こしているだろうか?それだけ本気で考えているだろうか?
とてもそのようには思えない。
私には、そういった「自由」を求めている人たちというのは、宝くじに当たった人を羨ましがっているだけにしか見えない。
つまりこれだ。
自由なめんな。
何をするのか
そもそも解放された人々は、自由を手にしたあと何をするつもりなのだろうか。
ごろごろするのだろうか。旅行でも行くのだろうか。そして生活費が尽きたら崖から飛び降りるのだろうか。まあそれでも構わんのだが、死体を片付ける人の気持ちも少しは考えてほしい。
自由も渇望するのであれば、やりたいことがないと話にならない気がする。別に「何もしたくない」でもいいのだが、そんなのが「自由」を獲得するためのモチベーションになるだろうか。努力しないようにするために努力する、と似ているが本質的に違う気がする。この辺りはまだモヤモヤしたままだ。
何ができるのか
「自由を維持するために何ができるのか?」
やはりこれが一番肝要である。
何の能力もないくせに、何の努力もしないくせに、何も具体的なことは考えてもいないくせに、「自由になるんだ!」とは身の程知らずにもほどがある。
自由はタダではないのだ。価値を提供しなければ得られないのだ。
自由を手にできるだけの価値があなたにあるだろうか?自由を維持できるだけの能力があなたにはあるだろうか?その根拠は?
自由だからって偉くないよ
別に自由だから偉いというものでもないし、よくネットは「社畜」などと揶揄されるサラリーマンだって立派な勤め人である。
縛られることで生まれる喜びだってあるし、実は縛られていたほうがやりやすことはたくさんあるのだ。
自分で仕事を生み出した経験がある人は分かると思うのだが、誰も縛ってくれない仕事をやると行き着く先が見えなくて非常に不安になる。これをやれば終わる、というものが見えない状況というのはかなり辛い。しかしそれが自由というもののひとつの側面である。
しかし仕事を与えられる。つまり、他人の指示に縛られる状態というのは、やるべきことが目の前に明確に示されているので、「まだまだ先だな」とか「もうちょっとで終わりだ」という観測ができる。仕事が進んでいることが分かるのだ。
どちらがいいかは人によるだろう。だからこそ、自由だからこそ素晴らしいという考えは間違っていると思う。少なくともそれは他人と比べるようなことではない。「私はこのことから自由になりたいと思っている」ぐらいでいいのではないだろうか?
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本当に目指すべきは
私が「自由を求める人たち」にモヤモヤするのは、きっと身の程知らずな人が見ていられないからなのだろう。これは挑戦できない自分の心を裏返したものだ。結局のところ私は自分の愚かな姿を他人に写しているだけなようだ。
まあそれはいいとして。
自由な生活を求めるのは好きにしたらいい。そのために価値を生み出してくれたまえ。
ただ私が思うのは、そういった目に見えた「会社から解放された」とか「仕事をやらなくて済むようになった」という分かりやすい「自由」ではなく、もっと脳みそが自由になることを目指した方がいいということだ。
最近堀江氏がこんなことを語っていたが、まさにそのとおりで世の多くの方(当然私も含む)は自由な思考をしていない。メディアなどからの受け売りで価値観を形成していることがほとんどである。
そんな不自由な思考から少しでも脱却できるように、いつもとは違った視点でものごとを考えてみたり、普段やらないようなことに手を出してみたり、背伸びしたような「自由」に関する記事を書いてみたりしてもいいかもしれない。
これは完全に私の好みの話なのだが、やっぱり何物にも囚われず自由な発想ができる人というのは非常にかっこいいと思うのだ。
自由になりたい。
以上。
自由をつくる自在に生きる (集英社新書 520C) | ||||
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