どうも、ひろたつです。
仕事をしていると気になることがある。いや、ひどく不愉快になることがある。
それは文句を言われることである。
◯弱点、悪意
私は役職上、100人を超える部下を抱えている。それはそれはヒドく忙しく、ゆっくりと考えている時間はない。
仕事にも追われ、人からは話しかけられ、携帯は鳴り続け、仕事の合間を縫ってFXチャートを確認する。ブログのネタを考える。
正直、自分がもうひとり欲しくなる。後半のふたつは完全に自己責任だが、それでも忙しいことには変わりない。
こんなにも健気に頑張っている私を労ってくれる人間は少ない。本当に少ない。悲しくなる。だが、そんなことは文句を言われることに比べれば些細な悩みである。私は理解されないことよりも、非難されることにヒドく弱い。というか、人の悪意に触れると途端に力が抜けてしまうフシがある。完全に弱点である。
文句はその最たる例だ。しかも人は自然と文句を言うから困る。私が文句を嫌がる温度と、言う人の温度差に正直ビビる。文句を平気で言っている人を見ると、私は
「この人、口からウンコ出してる…」
と思うぐらいなのだ。
どれくらいの温度差なのか分かっていただけただろうか。
◯指示は待つ、文句は言う
仕事でトラブルが起きることはしょっちゅうである。問題対応に追われているときの私の頭はパニック寸前。
忙しくなると考えは浅はかになりがちだ。元々頭の弱い私であれば尚更だ。それはそれは頭の悪い指示を繰り出すときがある。
するとある人はこう言う。
「えー」
なんだ「えー」って。一青窈か。古いか。そんなことはどうでもいい。人が無い知恵を絞って出した指示に対して「えー」の一言で済ますってのはどういう了見なんだ。いや、「えー」はもはや一言ですらない。単音だ。母音である。私の指示は母音一文字程度の価値しかないということか。
そしてある人はこう言う。
「それだとこういうデメリットがあるじゃないですか」
うむ。黙れ。そういうのが一番イヤなんだ。私の指示に不備があることなんて、指示を出している私が一番分かっているのだ。意外と無能な人間は自分の無能さを分かっているものだ。ただ虚勢を張って、さも「不足の事態に対して的確な指示を出していますよ」的な顔をしているだけなのだ。それを真に受けて、なにが「デメリット」だ。
私のような人間が上に立っている時点ですでに人生にデメリットを抱えていることを自覚するがいい。
大体にしてこういうやつは、どんなことがあっても自分で考えようとしない。しかし誰かが方向性を示した途端に評論家然とする。文句が次から次へと湧き出てくる。その力を少しでも問題を解決する方向に使えないものだろうか。
スポンサーリンク
◯大いなる被害者意識
私の指示がクソみたいなときもあるだろう。それは否定しない。しかし私がこの記事で言いたいことはそんなことではない。私が無能であることを世に知らしめたいが為に、キーボードを叩いているわけはないのだ。
文句を言う彼ら彼女らの頭にあるのはこれだ。
「こんな目に遭ってる自分可哀想」
本人たちが意識しているかは分からない。ただ言えるのは、何か問題が起こったときに彼ら彼女らは自然と、「自分を被害者に仕立てあげる」クセが付いているということだ。
クセというものは恐ろしいもので、それがどんな悪癖だろうが自分では気付きにくいという特性がある。そして思考のクセは人格と人生に大きく影響する。自分を被害者にするというのはつまり、「世の中はどうにもできないことで満ちている」という認識から来ている。「人生はコントロールできない」と言い換えてもいいかもしれない。
◯好きにしたらいい。その借金を。
彼らは自分の人生をどうするつもりなのだろうか?
人生に殴られ続けて生きていくのだろうか?
好きにしたらいい。しかしその借金は目に見えないし、感じることもできないから厄介だ。しかも返済する方法を誰も教えてくれない。その借金の名前を「時間」と呼ぶ。
確かにクソみたいに無能な上司を持てば文句を言いたくもなるだろう。私だって、私のような上司がいたら文句を言うだろう。言い倒すだろう。家に帰って奥さんにも愚痴ることだろう。ブログにも呪詛の言葉を書き連ねるかもしれない。そして全く人気が出ないブログを抱えて死んでいくことだろう。
話が逸れた。
結局のところ、自分の人生は誰も責任を取ってくれるはずもなく、それがどんな理不尽な目に遭って消耗されようとも、人生はどこ吹く風と終わっていくということだ。これは非常に残酷な事実なので、多くの被害者意識保持者たちは目を背けることにしている。
「こんな酷い目で私の人生が消耗されるはずがない」、と。
目を背けることが必要になることもあるだろう。だがそれは直視した人間がやることだ。マトモに見たことがない人間がすることではないのだ。もっと言えば、自分の人生を見つめる、という作業を思い出すことから始めるべきだ。
ということで、自分の無能さを棚に上げてみる、という試みである。
以上。ご清聴、感謝する。