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映画『関ヶ原』の原作は映像化を想像できないような壮大な作品だった

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この壮大な物語の紹介を書くにあたり、自分の胸にある感動をもう一度確認してみたが、あまりにも色々な思いや考えが去来してきてしまい、なかなか文字を綴ることができない。

 

なんていう、関ヶ原の書き出しを真似てみたわけだが、別段特別なことを書くつもりはない。

 

だってこの作品、文句なしに面白いから

 

普段、私は歴史小説を読まないし、頭ごなしに「どうせ難しいし」と拒否してきた分際である。この名作を語るに値しない人間かもしれない。

そもそもなぜ読もうと思ったのかといえば、本書『関ヶ原』が映画化されるという話を聞きつけ、ならば先駆けて原作を楽しまなければ、と不必要な使命感に襲われたからである。

というのも、私はかねてから「小説至上主義」を掲げており、みんなが映画『関ヶ原』を絶賛している横で、「いやいや、原作の方が最強だから」としたり顔をしたくてしたくて堪らないのだ。

 

とはいえ、映画の方もかなり面白そうなのは間違いない。原作をここまで楽しんだ以上、私もきっと観に行くことであろう。あの名将たちを現代の名優たちがどのように演じてくれるのか楽しみである。

 

映画「関ヶ原」公式サイト

 

キャストも素晴らしいし、きっとこの物語を映像化するのだから、予算も相当のことと思う。スケール感からして日本映画の枠に収まらないようなものができるのではと想像している。

 

だがあえて言わせてもらおう。しかもまだ公開まで半年近くある現時点で、である。

 

原作は越えられないだろうがな。

 

以下にその理由を記す。

 

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内容紹介 

東西両軍の兵力じつに十数万、日本国内における古今最大の戦闘となったこの天下分け目の決戦の起因から終結までを克明に描きながら、己れとその一族の生き方を求めて苦闘した著名な戦国諸雄の人間像を浮彫りにする壮大な歴史絵巻。秀吉の死によって傾きはじめた豊臣政権を簒奪するために家康はいかなる謀略をめぐらし、豊家安泰を守ろうとする石田三成はいかに戦ったのか。 

実はこの『関ヶ原』、衝撃的な構成になっている。

関ヶ原という名を冠しているにも関わらず、実際に関が原の戦い自体が描かれるのは、なんと下巻の最後の200ページほどだけ。半日で雌雄を決した戦いなのですぐに終わってしまうのは分からなくもないが、上中下の3巻(合計1500ページ以上)もあるのだから、もうちょっと戦い自体にページを割いてくれても良かったのではないかと思わなくもない。

冗長ではまったくない

ただ、だ。

その1300ページにも及ぶ前フリでは執拗なまでに、家康と三成の企みが描写しており、またその周りを彩る関が原に参加する武将たちの物語も、雄弁な司馬遼太郎の筆によりこれでもかと語られる。

『関ヶ原』というタイトルではあるが、関ヶ原の戦いそのものよりも、そこに集った人間たちのあまりにも壮大な群像劇と言えよう

なので、前フリであり舞台説明である1300ページが冗長かと言えば全く違う。むしろこれこそが『関ヶ原』の肝である。

家康と本多正信の周到さや卑怯さ、優秀さが、いちいち小憎らしい。

かたや、相対する三成の愚直なまでの真っ直ぐさや不器用さは、家康の巧者っぷりと比べると本当に拙く、未熟さに「あちゃー」と目を覆いたくなるほどだ。

でもどう考えても正義は三成にあり、家康は天下を盗み出すこそ泥である。(そのように描写されている)

だからこそ、彼らの腹の探り合いや、裏工作の仕掛け合いに、読者である我々は興奮せざるを得ない。この辺りは心理戦を楽しむ感覚と同じである。

全ては関ヶ原のために

読んでもらえれば分かるが、関ヶ原の戦いは、戦いそのものよりもそれに至る家康の策略や、武将たちの保身によって決したと言える。そこがこの物語を私が“群像劇”だと言う理由である。

だから、1300ページにも及ぶ壮大な“前フリ”や“舞台説明”は必須であり、これがあるからこそより“関が原の戦い”というクライマックスを存分に味わうことができるのだ。ただ単に武将同士が知恵を出し合ってぶつかり合うような戦いではなかったのだ。

老獪で全てを操ろうとした家康も、未熟ながらも秀吉のために愚直に正義を貫いた三成も、時代の流れを必死に読もうと誰に付くかを考えた武将も、裏切りのカードを常に持ち続けた武将も、そのどれにも属さずにただ己の軍のことのみを考えた武将も、みんな関ヶ原に賭けていた。関ヶ原のために生きていた。

このドラマは重厚という言葉でも足りない。賭けられた命の数も半端じゃないし、想いの崇高さ、真摯さ、汚さ、醜さ、純粋さ。その全てがそこにあり、ぶつかる。

史実を描いているので、よっぽど歴史を知らない人でもない限りはどういう結果を迎えるかは分かっている。『関ヶ原』は分かりきった物語なのだ。

それでもきっと、読みながら魂は震えるだろう。感情は戦の中に放り込まれるだろう。

ひとりひとりの命の輝きに圧倒されるはずだ。

情報量が半端じゃない

私は司馬遼太郎作品を読むのはこれが初めてなので、他の作品がどうなっているのか分からないのだが、こと『関ヶ原』に関して言えば、「喋りすぎ」だと思っている。いや、そもそも司馬遼太郎は語り部である。いくらでも喋って構わないのだが、著者の歴史愛が紙面から溢れ出していて、作品の中が情報の海になっているのだ。

関ヶ原でどちらが勝ったかぐらいは理解していた私だが、元々歴史には本当に疎い。大河ドラマさえ見ていないのだから。

なので、関ヶ原に至る理由も知らないし(たぶん学校で学んだと思うがとっくに忘れている)、どんな武将が参加していたかも知らない。

だが、そんな私にとって司馬遼太郎の筆は水先案内人として八面六臂の活躍をしてくれた。関ヶ原に関わる武将の人柄から生い立ち、人柄を印象づけるエピソードから、関ヶ原後まで語り尽くしてくる。作中で「余談だが」をたぶん100回は見かけた気がする。ここまで来ると、むしろ『関ヶ原』は余談だけでできた作品だと言えよう。

具体的に表すと、

 

余談…80%

家康と三成の駆け引き…10%

関ヶ原の戦い…10%

 

という感じである。司馬遼太郎がどれだけ余談好きか分かってもらえると思う。

でもこの余談が堪らない。歴史の授業のときに先生が、ふとしたときに語る脱線話を永遠に聞かされている感じである。本線よりも余談の方が印象的になったりするのは皆さんも経験があるのではないだろうか。

ちなみに私は、直江兼続が閻魔に書状をしたためる話が大好きである。

直江兼続の人気が凄いってのはちらほら聞いていたけど、そういうことかと腑に落ちた。

 

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利用する人間とされる人間、そして抗う人間

世界的な成功を収めている人のほとんどが、「歴史を学べ」と語るらしい。人というのはいくら時代が移り変わろうとも、本質的には何も変わらず、歴史の流れを学べば自ずとどんな戦略を取ればいいかが分かるらしい。

そんな話を聞いていたにも関わらず私は面倒で歴史を今まで勉強し直すことはなかった。

 

そこへこの『関ヶ原』である。

 

勉強ではないが、物語を読みながら歴史を学ぶことができるのであれば一石二鳥だと思った。

で、確かにちょっと学んだことがあるのでおすそ分けしたい。

 

まず力を持っている人間。これが一番強い。

権力でもいいし、金でもいいし、人望でもいい。とにかくこの世に影響を及ぼす“力”を持っている人間が一番優位に立ちやすいということ。関ヶ原で言うならば家康がまさにそれである。彼は戦略家だったけど、それよりも二百五十万石という桁違いの石高があったからこそ、あそこまでの勝利を上げることができた。

弱い犬は、強い犬に尻尾を振るように世の中はできている、というひどくシンプルで残酷な事実を理解した。

 

また、理念は確かに美しいけど、人を動かすのは理念だけではないということ。

関ヶ原で言うと三成がそれ。彼は理念の人だったし切れ者だったが、人望を集めることや戦略を考えることが極端に弱かった。それゆえに負けることになった。

実は関ヶ原の戦いでは三成が勝てる目もあったのだが、長い目でみればいつかは三成は結局負けていた、というのが作品内でも描かれている。

いくら崇高な理念があったところで、力がなければ勝つことはできない。この辺りは政治と同じだろう。票集めができなければ、政策の是非を問うことさえできないのだ。

 

最後にもうひとつ残酷な事実を。

人は愚直に何かを継続させること、自分の身を犠牲にすることを礼賛しがちである。もちろん正しい姿だとは思うが、結局そういう人は戦略的な人に“利用されて”終わってしまうということ

『関ヶ原』では愚直で、自己犠牲の精神に溢れた素晴らしい武将がたくさん出てくるが、ほとんどが利用されるだけ利用されて終わってしまった。それを惨めと思うか、それとも立派だと思うかは人それぞれだろうが、事実、利用されてしまう。

 

『関ヶ原』では家康と三成が、いかに人を操り、利用し、利用されるかを描いている。もちろん政治巧者な家康もある一方では利用されていたりする。

きっと世の中は大抵がそういうふうにできていて、それは現代でも変わらないだろう。

利用する人と利用される人がいる。それが動かしがたい事実なのだ。

そんな残酷さも『関ヶ原』ははっきりと描いている。

 

だがその一方で、愚直に理念を求める人間の命を救ってくれてもいる。

きっと『関ヶ原』で司馬遼太郎が書きたかったのは、人間の美しさではないだろうか

世の中は利用する人と利用される人間がいて、その様相は醜いかもしれない。

でもそれでも愚かに抗う人間がいて、その姿は美しい。そして美しさは人の心を確かに打つ。

 

そんな司馬遼太郎の思いが垣間見えるのが、この長い長い物語の最後に、稀代の戦略家として知られる黒田如水(黒田官兵衛)の石田三成評にある。

 

「あの男は、成功した」

といった。ただ一つのことについてである。あの一挙は、故太閣へのなによりもの馳走になったであろう。豊臣政権のほころびにあたって三成などの寵臣までもが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ、人はけじめをうしなう。かつは置き残して行った寵臣からそこまで裏切られれば、秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば、あの男は十分に成功した、と如水はいうのである。

 

三成は賢かったが愚かな男だった。だが彼の愚かさは、とても人間くさく、愛すべき者だと思わずにはいられない。

家康は本当に優秀だけでも、どこか人間を超越したような存在だ。

だからきっと、小市民である私は三成の肩を持たずにはいられないし、彼の生き様を美しく感じ、それと同時に勇気づけられるのだろう。

 

力は人を動かすかも知れない。

だけれども、人の心を動かすのはいつだって、心なのだ。

 

素晴らしい作品に出会えたことを感謝する。

 

以上。