バカなやつ、間違っているやつ、迷惑をかけるやつ。
そんな人達を懲らしめようとする風潮がある。
風潮だけではなく、自分に危害を加えてきた場合なんかも、どうにかして相手に嫌な思いをさせたくなるものだ。私の場合、クチャラーに出会うと純粋な殺意を抱く。
懲らしめても意味がない
で、最近気付いたのだが、この「懲らしめる」という行為、ほとんど意味がない。
だって、自分の身になって考えてもらえば分かると思うが、懲らしめられたときに人が考えるのはきっと、「憎しみ」だから。
人ってのは勝手な生き物なので、どれだけ自分が悪かったとしても、やられたらやり返したくなるもの。
どれだけ自分が悪かったとしても、罪に対しての罰だったとしても、「ふざんけじゃねえ」と思うだろう。反省とはほど遠い感覚である。
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反省とか、させるもんじゃないから
大体にして反省させることはかなりハイレベルな行為だ。
反省は“する”のが普通であって、“させられる”ものではないからだ。有吉反省会とかも、自分から反省してるでしょ?
「反省させる」場合ってのはあまり考えらない。相手と強力な依存関係(例えば、カリスマ上司と部下とか、虐待する親と子供とか)であれば、それも可能かもしれない。
現に私も社会人になってそろそろ15年になろうとし、部下の数は100人を越える立派な中間管理職なのだが、未だに心は子供の頃のまま。仕事で派手にミスをして上司に怒られても感じるのは「うるせえなぁ」である。私がクソなだけな可能性もあるだろうが、きっとみんな同じようなものだろう。
逆に私とは違い、叱られたり説教されたりして、ちゃんと反省できるような人格者というのは稀である。たぶん、そんな人格者はそもそも懲らしめられるようなことをしないと思う。
制裁よりも理解
あと会社で人の上に立つ仕事をしている私から言わせると、上記の「バカなやつ」「間違っているやつ」「迷惑をかけるやつ」を懲らしめようとしてもムダだ。よりバカになったり、より間違ったり、より迷惑をかけるやつになったりする。
彼らに必要なのは、制裁ではなく、理解である。話を存分に聞いてあげることだ。
これはなかなか難しいし、手間だし、そんなアホな奴らに時間を割くのは、人生の無駄遣いに感じる。
だけど、これが一番手っ取り早く、効果が高い。アホな奴を成長させるのは個別レッスン、しかも二人三脚が相応しいやり方なのだ。
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懲らしめ中毒の皆様
もうひとつ思うことがある。みんな懲らしめる奴を見つけたがりすぎだろう。
世の中にはバカなやつがいて、そいつらのせいで諸々の問題が発生している。という考えから、「バカは処罰されるべき」という価値観を持っている。
でもこれはただの言い訳にすぎない。
だって人は、人を痛めつけることに快感を得るようにできているのだから。
厄介なことに人には他人が不幸になっているのを見ると、脳の「側坐核」という部分が過剰に反応するらしい。
この「側坐核」は人に快感をもたらす。つまり、人の脳は他人の不幸を喜ぶようにできているのだ。
※参考文献
脳には妙なクセがある (扶桑社新書) | ||||
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この傾向は、相手が自分に危害(嫌な思い、不安、嫉妬など)を加えてくるとより顕著になる。
例えば、学生時代の同級生が大成功している様子を想像してもらう。
そうすると大抵の人は、脳の「前帯状皮質」という部分が反応する。ここは「嫉妬」や「妬み」を司る部位である。
次に、その同級生が儲けた金で麻薬に手を出して、捕まっている様子を想像してもらう。
すると、さきほど書いた「側坐核」が反応する。つまり快感を得るのだ。
誰しもが共感してもらえると思う。
でも社会通念として、おおっぴらに他人の不幸を喜ぶことはできない。その代わり、バカなやつ、間違っているやつ、迷惑をかけるやつ、というような格好の標的を見つけると、思いっきり懲らしめて、不幸のどん底を味わっていただきたくなるわけだ。
考えてみれば、テレビで見かけるのってそういう「悪者は成敗される」という図式ばっかりだったりする。
小さい子供を持つ身としては、やはりテレビなんか見せるもんじゃないんだなぁ、と思った次第。
どんなに愚かな行為だったとしても、その人にはその人なりの理由があるもの。相手を愚かだと思ってしまうのは、愚かだと決めつけてしまうほど自分が愚かだからだ。
まあ、クチャラーを理解しようなんて思わんがな。
以上。