どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。
本屋大賞をかっさらった作品を読んだので、ネタバレ一切なしのレビューをする。参考にされたし。
『羊と鋼の森』の内容を紹介
高校生の時、偶然ピアノ調律師の板鳥と出会って以来、調律に魅せられた外村は、念願の調律師として働き始める。ひたすら音と向き合い、人と向き合う外村。個性豊かな先輩たちや双子の姉妹に囲まれながら、調律の森へと深く分け入っていく―。一人の青年が成長する姿を温かく静謐な筆致で描いた感動作。
まず大前提として書いておこう。
これは傑作。
本屋大賞を受賞している時点でもう傑作なのは間違いないんだけど(『謎解きはディナーのあとで』は除く)あえて書きたい。マジで凄い。人は自分の感性を超えるものに出会うと、語彙力を失うものなんだと改めて実感した。やべーやべー。
『羊と鋼の森』のここが凄い
やべーやべーと言っても何も伝わらないので、『羊と鋼の森』ポイントをまとめてみよう。
・ストーリーはほとんどないに等しい。なのに超読ませる。
・エンタメ小説で必須とされている「恋愛」「エロ」「暴力」などの要素が、なにひとつ入ってない。なのに超読ませる。
・「音」を文章で表現しつくしちゃう、圧倒的な文章力。
・音を実際に聴くよりも、感動できる
こんな感じである。
ちなみに不満だった点はひとつもない。自分で言うが、普段からめちゃめちゃ小説を読んでいる私をして「不満な点はない」と言わしめる作品は、そうそうない。
では以下に『羊と鋼の森』の魅力について、詳しく語っていこう。
ストーリーがない?
主人公は調律師を目指す青年である。学生時代にちょっとしたきっかけで目にした調律に魅了され、その世界へと身を投じる。
これだけ読むとよくあるスポ根ものという感じがすると思う。挫折や成功体験を繰り返して、最後はハッピー的な。
そういう要素がないとは言わないが、『羊と鋼の森』の場合ではストーリー要素はあまり重要視されていない。物語なのにだ。
これに関しては、作者の宮下奈都があえて過剰なドラマを用意しなかったのでは、と私は思っている。
というのも、主人公が目指している調律師とは、あくまで脇役である。演奏家を支える黒子であり、表立って活躍するものではない。もっと言えば、調律師は「音楽」をより良くするための部品なのだ。
この調律師と同じ役割を『羊と鋼の森』に任せているのではないだろうか。
調律師そのものにも物語がある。しかし、それはあくまでも音楽という一番優先されるものの影に隠れていなければならない。『羊と鋼の森』という作品によって、音楽をより良く感じさせる。それが最大の目的なのだ。
だから派手な起承転結も、エンタメ要素も必要ないのである。調律師が主張してはダメなのだ。
主人公の奥にドラマがある
しかしそう言っても小説である。物語がなければ読めない。流れがなければ成り立たない。
基本は主人公が一人前の調律師になるために切磋琢磨する様子が描かれるが、これ自体は非常に静謐だ。ドラマチックさはほとんどない。
ではどこで物語、ドラマを生み出しているか。
それは主人公が調律するピアノの向こう側にある。
ピアノの調律を通して、主人公も私たち読者も、様々なドラマに触れるのだ。まさに調律師じゃないか。
この奥ゆかしさ、届かなさが、『羊と鋼の森』の最大の魅力だと私は思う。あとこれは想像の範囲を出ないが、調律師という仕事の魅力でもあるんじゃないだろうか。
卓越した文章力
『羊と鋼の森』を『羊と鋼の森』足らしめているもの。それは文章力。これに尽きるだろう。
これまで数千冊の小説を読んできて、自分でもこうやって腐るほど文章を綴ってきた私だが、いまだになにをもって「文章が上手い」と言えるのかはよく分からない。
例えば「同じ語尾を続けない」とか「指示語を減らす」みたいな具体的なテクニックは広く知られている。しかしそれは枝葉末節でしかなく、「文章の上手さ」の本質ではないように思う。例えるなら、「美人になりたかったら、毛穴の手入れはしっかり」と言われているような感じなのだ。間違っていないけれど、芯を食っていないというか。
私の中で一番納得できる「文章の上手さ」とは、めちゃくちゃ乱暴な表現になるが、「感情が動かされること」である。この条件さえ満たしていれば、語尾がとか指示語がとかは、どうでもいいと感じる。
で、『羊と鋼の森』である。
さきほども書いたとおり、この作品には売れるエンタメ作品特有の「恋愛」「エロ」「暴力」といった要素が皆無だ。それなのに面白いし、作品世界に一気に引き込まれる。
具体的にどんなテクニックが使われているのか語ることはできない。
ただただ文章が上手いのだ。
だから面白く読めてしまう。作品世界に浸れてしまう。ひたすらに快感を与えてくれる。
そうとしか言いようがない。←文章力がない文章
何が凄いって、音色よりも音色
音楽を扱った小説は多い。でもこれって、実はものすごい矛盾を抱えている。
だって音を楽しみたいのであれば、音楽を聴けばいいのだから。わざわざ文字で音を楽しむ必要なんてない。可愛い子を見たいのに「美女」という文字を眺めていても仕方ない。
でも『羊と鋼の森』は仕方なくない。なんならこの作品を読むほうが、音楽を実際に聴くよりも音を感じられる。これってイカれてません?
音って、数字みたいなデジタルで評価することができない。「この曲の心地よさは80」とかないでしょ。「うーん、めっちゃいい!」みたいな感覚中心の評価になる。
でも人には具体的に理解したり、把握したい欲求があって、もやもやしていたものをハッキリを捉えられると得られる快感ってのがある。
その役割を担っているのが『羊と鋼の森』なのだ。
調律師なんていう超専門的な知識と、卓越した耳を持った人間にしか”見えない世界”を、文章というデジタルなもので表現しちゃう。音楽の魅力を具体的な言葉に置き換えてくれる。
多くの一般人が実際に良い音を聴いても「いいね」ぐらいにしか思えないだろうけど、文章によって具体的にすることで、実際に音を聴くよりももっと感動してしまう。
現に私は『羊と鋼の森』で主人公が音に感動するシーンを読むたびに、何度も鳥肌が立っていた。何度もゾクッとした。
あのときの私は、間違いなく音を聴いていた。
主人公と共に深い深い森の中へ
一般人は特別な能力がないからこそ一般人である。でもそれは同時に、特別なものを楽しめる人でもある。特別な人にとって特別は日常だからだ。
音に関して感性が凡人である私たちが音で感動しようと思ったら、なかなか難しい。そもそも音に感動できるだけの土壌が備わっていない。
『羊と鋼の森』ではその役目を主人公が一手に引き受けてくれている。彼の繊細な感性が、音楽もそうだし、日常の些細な出来事、人の魅力について、優しく琴線に触れてくれ、彼の言葉を通して私たちへと伝えてくれる。彼の純粋な感動がもろに伝わってくる。
とても静かな作品である。そして綺麗な作品である。
読めば心が静かに浄化されることだろう。
そして、今までに聴いたことがないほどの、最高の音を体験させてくれるはずだ。
深い深い森の中へと、主人公と一緒に旅に出よう。
以上。
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