どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。
今回の記事は、誰もの心を優しくする名作の紹介である。
内容紹介
栗原一止は信州にある「二四時間、三六五日対応」の病院で働く、悲しむことが苦手な二十九歳の内科医である。職場は常に医師不足、四十時間連続勤務だって珍しくない。ぐるぐるぐるぐる回る毎日に、母校の信濃大学医局から誘いの声がかかる。大学に戻れば最先端の医療を学ぶことができる。だが大学病院では診てもらえない、死を前にした患者のために働く医者でありたい…。悩む一止の背中を押してくれたのは、高齢の癌患者・安曇さんからの思いがけない贈り物だった。
作者の夏川草介は現役の医者で、『神様のカルテ』の主人公と同様に地域医療の経験者なので、内容は真に迫っている。きっと自分が普段考えていることや苦悩をそのまま乗せた作品なのだろう。
3つの短編からなるこの作品は、その短さとは裏腹に「地域医療」「命」「尊厳」「恋愛」「友情」「人生」「医者の使命」などなど、みんなが大好きなテーマがこれでもかと詰め込んである。だからといってごちゃごちゃした作品では全然なくて、シンプルにまとまった読みやすい作品である。シンプルなのに重みがあるとか優秀すぎるだろ…。
多くのテーマを抱えているからこそ、誰もの心に引っかかるポイントがある。
たぶん、好きにならない人はいないだろう。無敵タイプの作品だと思う。
この語り口は…
『神様のカルテ』は一風変わった語り口で展開される。
すべて主人公の栗原一止(いちと)が語り部となっているのだが、この男が作品内において「夏目漱石マニアの変人」という設定になっているので、これを反映した語り口だ。
ぱっと見は古風な言い回しが多用されていて堅苦しい印象を受けるが、その実態はボケと悪態であり、そのギャップに思わず笑ってしまう。『神様のカルテ』が多くの人に受け入れられたのは、この独特な語り口にもあると思う。
これ、実は読み始めた瞬間に私はある作者と同じものを感じていた。
森見登美彦である。
手法としては完全に同じだと思う。古風なしゃべりを駆使してボケ倒す、という。
パクリだと言うつもりはない。一応、『神様のカルテ』は“夏目漱石フリーク”という名目があるのでギリギリセーフだろう。それにモリミー(森見登美彦の意)がなかなか新刊を出さないので、モリミー要素を補充するという意味でも読者的には助かることだろう。
医者がそこにいる、という感覚
私は医療の専門知識があるわけではないので、『神様のカルテ』で描かれる医療現場の様子が事実なのかどうかとか、医療知識が正しいのかは分からない。
しかし作中で出てくる医療知識の取り扱われ方があまりにも自然なので、雰囲気としての説得力がかなり高い。分かっている人、という感じがビンビンする。まあ現役の医者が書いているのだから、当然の話だろう。
以前、知念実希人の『崩れる脳を抱きしめて』を読んだときも同じことを感じたのだが、現役の医者が専門知識を振り回して作中に描き出すと、妙な説得力が生まれるからズルいと思う。なんだろう、もう医者がそこにいるような感じになって、自然と頼りたくなってしまうのかもしれない。医者に話されると無条件に受け入れてしまうあの感じである。
エンタメ医者こそ最強
ビジネス書や美容系の本では以前からあった傾向だが、医者が書いた本がやたらと売れる空気がある。
「〇〇専門家」みたいな謎の存在ではなく、本物の医者が書いているという安心感・ブランド力から手に取られるのだろう。
その波がフィクションにも来ているのかもしれない。
現役の医者が書いたからといって小説が売れるとは思わないが、フィクションにとって必要な“説得力”を生み出すためには、本物の知識がある人の方が適任であることは間違いない。だからこそ小説家は新作を書くときに必死に勉強したり、取材に走ったりする。
で、『神様のカルテ』の場合、もろに地域医療の最前線を描いていることもあり、作者の夏川草介の面目躍如。思う存分語ってくれている。
容態の急変した患者が出てくるシーンで飛び交う医療用語の弾丸には、意味が分からなくても本物の緊張感が溢れているし、「医者はどこまで患者を生かすべきか?」という非常に難しい問題には、最前線で戦う医者の苦悩の片鱗を見せている。(現代の医療技術を使えば、患者本人が死にかけでも、無理やり生き長らえさせることができてしまう)
現役の医者が持つそんな“本物”をフィクションの世界に溶け込ませることで、優秀な作品に仕上がっているのだ。ただのフィクションには生み出せない“重み”がある。
自らの持つ医療知識を金儲けに使っていると言ってしまえばそれまでだが、医者がエンタメに徹すると優秀な作品ができる、という好例だと思う。
どこまで生かすか問題
以前何かの記事で読んだのだが、欧州では胃瘻(いろう)が虐待と認識されているそうだ。なにかと言えば欧州を例に挙げてしまうのが後進国日本の悲しさだが、新しい価値観を勉強する上では仕方ないだろう。
胃瘻とは胃に直接栄養を送り込み、患者の意識がなくても無理やり生かすことができる、という医療技術である。
患者本人にしゃべったり、意思を伝えたりする能力があればいいが、寝たきりだったり、植物状態だったりする場合、胃瘻が患者にとって本当に幸せなことなのかは、難しいところだ。「早くラクになりたい」と思っているかもしれないし、「ずっとこのままにしてほしい」と思っているかもしれない。とにかく分からないのだ。
きっとこれから先、さらに似たような問題は増えることだろう。医療技術が進歩はしても、退化することはないからだ。
『神様のカルテ』はフィクションでありながら、私たちの人生にも関わる大きな問題を突きつけてくる。いや、そんな激しさはないか。物語を通して優しく語りかけてくる。「あなたはどう考えるか?」と。
死を想え
間接的にではあるが物語の中の死に触れることで、読者の中に“死との距離感”が生まれることだろう。
死は誰のもとにも平等に訪れるが、その一方でいつ訪れるかは誰にも分からない。
だからこそ、死に対する距離感がつかめないまま、私たちは日々を過ごしている。近くにある些細なことばかりに目を向けて生きている。遠くを見れば、その限られた道のりに絶望するからかもしれない。見なければつかの間、「自分には関係ないことだ」と逃避できる。
しかし、私たちが本当に命を全うしたければ、まずは死を見つめなければ話にならない。期限がないものに人は本気になれない。本気とは必死になることである。真剣になることなのだ。
いつだって我々の命は限られている。その限られた命を何に使おうか。
そんな問いの、ひとつの答えが『神様のカルテ』には描かれている。
以上。
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