どうも。
久々にどでかいハズレを引いたので怒りをぶつけたいと思う。
煽り文句
まずはこれを読んでほしい。
アマゾンの紹介文である。
《大反響のベストセラー、10万部突破! 》
思いっきり泣いた後、大切なことに気づく本書は「猫にまつわる感動体験」を通じて、登場人物が学び、成長していく全4話からなる小説です。
「電車の中では読まないで下さい。ラスト30ページ、衝撃の結末に号泣しました」(34歳・女性)の読者コメント通りの感動物語。奇妙な猫との出会いを通して、登場人物が「生きるとは?」「家族とは?」「働くとは?」など人生を深く哲学していく4つのストーリーで展開していきます。
それぞれのストーリーは独立しながらも関連しあい、最終話まで読むと一つの大きな物語として完成されます。
衝撃のラストは、涙なしには読めません。思いっきり泣いた後、本当の幸せに気づく、そんな「気づきのある物語」です。
堪らない紹介文である。美味しそうなところがたくさんあるのにお気付きだろうか。
「ラスト◯ページ、衝撃の結末」
「人生を深く哲学して」
「最終話まで読むと~」
「気づきのある物語」
「電車の中では読まないでください」
「号泣します」
この辺りは読者の目を惹くための常套句とも言える。
本好きには堪らない言葉たちであり、煽り文句である。購買意欲をそそられる。実際そそられた結果、購入したのが私だ。
別にこの煽り文句を使うのは悪いことじゃない。正直なことを言うと、「衝撃の結末」というのはできることなら伏せてほしいところではある。衝撃ではなくなってしまうからだ。
でもそんなことはどうでもいいのだ。
煽り文句には問題はまったくない。何が問題かと言うと、上の紹介文で私が太字にしている箇所が全てウソだということだ。
「号泣した」はまだ許そう。個人の感想だし、ウンコを見て泣く人だっているだろうしな。ウンコを見て泣いてしまう人が、この『悲しみの底で猫が教えてくれた大切なこと』を読んで「号泣」したとしても不思議はない。元々理解できない人がどういう感想を抱きどんな身体反応を示そうが構わない。
だがな、他の部分は論外だ。だってウソなのだから。
衝撃の結末はない。ラスト30ページで怒涛の変化が起こることもない。ただ最終話が始まるだけだ。人生を深く哲学もしていない。奇妙な猫との出会いもない。話はそれぞれ独立していない。全部繋がっている。気づくことなど何もない。
この時点でかなりの作品である。名作だ。人を陥れる分野のな。
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感動…?
この『悲しみの底で猫が教えてくれた…って名前が長すぎてタイプするのがめんどくせえよ。めんどうだから次から『猫のあれ』な。これなら簡単だから。
この『猫のあれ』は巷ではとにかく「感動作」として売り出されている。
もう一度アマゾンの紹介文を読んでもらおう。
【書店員さんコメント】
全国の書店員さんから感動の声、続々!
●泣ける物語は数々ありますが、泣きながら温かい気持ちになれる物語にはそうそう出会えません。
この物語は間違いなく後者です。(さわや書店・栗澤順一さん)●読んだ後、"大切な人に会いたくなる"優しい本でした。(丸善舞浜イクスピアリ店・高村可奈さん)
●親子の絆がこんなにも素晴らしく読めたお話はありませんでした。鳥肌がたち一気読みでした。
(大杉書店市川駅前本店・鈴木康之さん)●猫を通して動く人の心。始まる人生。想像もしていなかったラストに……電車の中で泣きました。
(紀伊國屋書店グランフロント大阪店・山口舞佳さん)●何のために生きてるんだろう? 本当に大切なことは何なのか? 奇跡の結末には、涙腺がゆるみっぱなしでした。
(三省堂書店そごう千葉店・井下京子さん)
全国の書店員さんが大絶賛である。
感動が大好きで、感動の押し売りまで盛んに行なわれる日本で、「感動作」ほど大衆の興味を惹く言葉もそうそうないだろう。まさに消費者を仕留める必殺の言葉である。じゃあ、あれじゃね。売れない商品に適当に「感動作!」とか印刷しとけば、勝手に売れるんじゃね?こういうのとか、こういうのとか 。
そもそも『猫のあれ』は感動作ではない。感動をあまり舐めないで欲しい。感動というのはそんな簡単に達成できるものでもない。
ただまあ、感動という言葉を「感情が動いた」という意味で捉えるならば確かに感動したよ。怒りって感情が動いたからな。
私が『猫のあれ』を読んでいる最中、ずっと感じていたことがある。それは作者の
「どう?これ悲しいでしょ?感動するでしょ?こんな設定があったんだよ?このキャラにはこんな過去があったんだよ?切ないでしょ?ね?ね?隠された事実に感動しちゃうでしょ?」
というあまりにも浅薄で見え透いた、押し付けがましい思惑である。こんなんで感動する訳がない。読者を舐めないで欲しい。
「私の作品で読者を感動させたい!」と思った作者の気持ちに罪はない。それ自体はいいことだと思うし、そういった志から数々の名作が生まれてきたはずだ。
だが、あまりにも未熟すぎた。
感動を欲しがるばかりに、安易な設定やストーリーを紡ぐことで、むしろ読者は冷めてしまうのだ。
下心丸出しでデートに誘う男に魅力があるだろうか?
お金儲けをしたがっているキャバ嬢に癒やされるだろうか?
教祖が金勘定をしていたら信用されるだろうか?
同じように、やたらと感動を引き出そうと躍起になる作品には、どうしても嫌悪感を抱くものなのだ。それを作者はまったく分かっていない。そして『猫のあれ』を読了した感じだと、たぶん作者は素でやっている気がする。
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デジタルな登場人物たち
ウソばかりの紹介文。押し付けがましい感動。
この2点は確実に『猫のあれ』の汚点であり、私をすこぶる不快にさせた。
だが最大の欠点は「デジタルな登場人物」に他ならない。これのせいで、読んでいる時間が本当に苦痛で苦痛で仕方なかった。
だったらなぜ読むのを止めなかったかと言うと、この記事を書くためである。
批評をするならば最後まで付き合うのが正しい姿だと私は考えている。作品のすべてを吟味せずに「こんなのダメだ!」とのたまうようなことはしたくなかったのだ。しっかりと苦しみ抜いた上で、こうして悪態をつきたい。最低の作品に対しても最低限の礼儀は持ちたい。
「デジタルな登場人物」というのはあまりイメージが湧かないかもしれない。私も初めて使う言葉なのであまり馴染まないのだが、『猫のあれ』の登場人物たちを説明するには一番適している言葉だと思う。
人には感情がある。喜怒哀楽なんていうふうに表現されるが、実際にちゃんと「喜」「怒」「哀」「楽」と分類できるような瞬間ってのは少ない。本来は「喜」があってもどこかしらに「悲しさ」があったり「虚しさ」があったりする。「怒」の状態に見えても「戸惑い」や「恐怖」が混ざっているときがある。
同じように「理解」というものも、「分かった!」となることは少ない。「え…?そんなの信じられないよ…でも…あれ…確かに…?でもこいつの言うことなんて受け入れたくないし…」というようなノイズが入るものだ。
自分自身の経験を振り返れば分かることだ。人の感情や思考というのはグラデーションなのだ。
だが『猫のあれ』は違う。感情や思考の流れが非常にデジタル。登場人物たちの感情や思考がパキパキ切り替わっていく。
相手に不快なことを言われたらいきなり怒り出すし、人生訓めいた深いことを言われたらいきなり考え込み出す。人の話をすぐに信じるし、その状況を何の疑問もなく受け入れる。
これが気持ち悪くて仕方ないのだ。
「え…?俺の知ってる“人”ってそんなんじゃないけど…?」
そんな不快感がずっと付きまとっていた。早く本を放り投げたかった。いや投げたけどさ。実際に。
もしかしたら「そういうキャラクターなんでしょ?」とあなたは思われるかもしれない。すぐに何でも受け入れてしまったり、感情がころころ変わる性格なんじゃないかって。フィクション作品にはよくそういうキャラクターがいる。
違うんだ。そうじゃないんだ。
単純に作者が「物語をこっちに進めたいから、キャラクターたちはこういう反応してね」という考えが生み出した産物なのだ。つまり、ただただ言わされているだけ。演じているだけ。
そこには何のドラマもない。感情の動きもない。血も通っていない。
こんなんでどうやって感動せえっちゅうねん。ムリだろ。
物語の上で、登場人物たちの葛藤や戸惑いなんてのは、作者からしたら「しんどい」ものなのかもしれない。わざわざそんな心理描写をしたり、キャラクターたちが納得するためのきっかけを用意(作者が知恵を出さなければならない)しなければならない。
だがそんな「ぐちゃぐちゃ」こそが人間であり、感情のはずだ。そこから逃げたら永遠に感動なんてものは作り出せない。この作者は「感動させる型」に、キャラクターと我々読者を嵌めようと安易に仕事を進めすぎだ。仕組みばかりを意識しすぎだ。
ということで
長々と書いてきたが、この本が実際に売れまくっているのは純然たる事実である。
最高の煽り文句に、信用のおける書店員さんの猛プッシュもあり、しかも装丁が今時大流行している「白地に黒」である。どの本もこれだからそろそろ食傷気味なのだが、みんなは違うのだろうか。
きっと私の感覚がおかしいだけで、もしかしたら実は本物の「感動作」なのかもしれない。いや、きっとそうだ。
だから本当に感動したいのであれば、超絶オススメしたい傑作である。みんな買ってくれ。このリンクをガンガン踏んでくれ。そうすれば私の口座に…
悲しみの底で猫が教えてくれた大切なこと | ||||
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以上。