どうも。
一時期色々あったグレートシンガーの鬼束ちひろが復活したと話題である。
現在の彼女のホームページを見てみよう。
うむ、変わらずの美貌を披露していただきありがたいことだ。
ニュースやバラエティなどで大々的に報道されたため、色々あった時期ばかりが取り沙汰されてた彼女だが、私はその時期について面白おかしく話題にしようとは思わない。
なぜなら私は本当に彼女のファンだったし、彼女があのような変貌を経て本当に傷ついた人間のひとりだったからだ。笑いに昇華できるほど軽いものではないのだ。なんだ主食はスイカバーって。笑えねえよ。
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ファンの盲目的な態度からついつい「あんなの鬼束ちひろらしくない」とか、今の鬼束ちひろを見て「戻ってきた」とか言いがちだが、それはそれで非常に独善的というか、おこがましく感じてしまうのも正直なところ。
表現というのは良くも悪くも自分自身を切り売りする行為であり、ファンはどうしてもその一部だけを見て、それが「アーティストの全て」だと勘違いしてしまいがちである。
当然、デビュー当時からずっとファンだった私も同じ症状に見舞われていた。
この20歳とは思えない深みに満ちた歌声。「I am GODS CHILD」という強烈な歌い出しといい、この裸にしか見えないMVとか、その全てが彼女をアーティストたらしめていた。
混じり気のない表現者。しかも美女。
そんなイメージを持っていた。
続くシングル『Cage』『眩暈』でもそのイメージは変わらなかった。少し人間味を出して来て、余計に魅力的になったように感じる。
パワフルな歌声とは裏腹に、何とも庇護欲に駆られてしまう儚さがある。たぶん、これが鬼束ちひろ最大の魅力であり、みんなが持つ鬼束ちひろのイメージだと思う。
特にこの『眩暈』とか最高すぎて、一時期永遠に観ていたことがある。完全に鬼束中毒患者に仕上がっていた。
ファンというのはアーティストに依存すれば依存するほど幸福感を得られる。脳みそを停止していられる。ただただ享受するだけである。あじゃぱー状態である。
それゆえにアーティストを自分の理想の型にはめたがるし、そこから逸脱することに非常に敏感になってしまうのだ。「今まで通りの快感が得られないじゃないか!」と。
しかし先程も書いた通り、表現というのはあくまでもアーティストの一部分でしかない。それのみを受け入れ、それ以外を受け入れてもらえないというファンとアーティスト関係は非常に歪と言える。
アーティストが繊細であればあるほど、自分に正直であればあるほど、役割だけに徹すのは苦しいものだと想像する。
「みんなが許してくれるものを」
そんなふうに考えながら創作活動を行なっていたのかもしれない。
常に彼女のパフォーマンスには、そんな不安を表したかのような悲しみや窮屈さのようなものを感じていた。
楽しそうに歌っているように見えるが、やはり痛々しさが抜け切れていないというか…。穿って観すぎかもしれない。
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『TRICK』から鬼束ちひろにハマった人も多いと思う。この『私とワルツを』を以って、大人気ドラマ『TRICK』は終了した。色々な伏線もぶん投げたまま、視聴者を引きつけるだけ引きつけておいて、あっさり終了。
それと同時に鬼束ちひろのアーティストとしての最盛期は終わりを告げた。
ベストアルバムを発表したのもこの後。
ここからさらなる活躍をするのは並大抵のアーティストでは不可能である。
それこそいくらでも作品を生み出せるような化け物たちの世界なのだ。たぶん、鬼束ちひろはそこまで多作なアーティストではない。身を切るような想いで作品を創出しており、多作にできるほどの図太さが足りていなかったのだ。
彼女にとって、はっきりとした形を伴わない自分の一部分だけを愛するファンは支えにならなかったのだろう。レーベルとの契約も切り、活動休止期間にも入り、そして復活したと思えば大胆なイメージチェンジ(とファンが勝手に受け取っている)。
敏腕プロデューサー(小林武史)を起用しみたりとかもしたが、何かが足りない。あの唯一無二の歌声にも何か迫力が足りない。魂を吐き出したような歌詞でもなくなっている。
ファンは少しずつ離れていった。
色んな意味でアーティスト鬼束ちひろは終わりを告げたのだった。
私も彼女の依存症状から脱却したわけだ。
結局のところファンは自らの快感でしかアーティストを評価することができず、快感をもたらさなければ興味をなくしてしまうのだ。我ながら勝手なものである。
そして今。2016年。
「鬼束ちひろが帰ってきた!」と騒がれた。
そして公開されたMVがこれ。
あれだけ細っていた歌声は完全に復活したと言えるだろう。迫力に満ちている。容姿もあの頃のようにナチュラルなものになっている。
だがどうだろうか。あの頃のような魅力が変わらずにあるだろうか。
別れた恋人を歌った楽曲はあまりにも凡庸じゃないだろうか。あれだけ繊細で発想の煌めきを感じさせた歌詞はどこに行ったのだろうか?
彼女の全盛期に魅了されていた人間としては、懐かしさだけではどうしても拭いきれない“物足りなさ”を感じてしまった。
ファンというのは本当に勝手なものである。勝手に熱を上げ、勝手に失望して去っていく。アーティストを消費していく。そしてアーティスト自身は消耗していく。
もしかしたらあの頃の鬼束ちひろはすべて演技だったのかもしれない。そんな彼女に私は魅せられていたのかもしれない。
そして色々な葛藤や迷いの末、今、鬼束ちひろが迷いなく創作をできているのだとしたらそれはとても嬉しく思う。
あの頃のように彼女を支えることはできずとも、それでも苦しまずに活動してほしいと勝手に思っている。
以上。