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誰も手の届かないところで月は。凪良ゆう『流浪の月』

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どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

読みました。ネタバレ一切なしのべた褒めレビューです。ご覧あれ。

 

内容紹介

 

あなたと共にいることを、世界中の誰もが反対し、批判するはずだ。わたしを心配するからこそ、誰もがわたしの話に耳を傾けないだろう。それでも文、わたしはあなたのそばにいたい―。再会すべきではなかったかもしれない男女がもう一度出会ったとき、運命は周囲の人を巻き込みながら疾走を始める。新しい人間関係への旅立ちを描き、実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。 

 

こんなにも中身が見えないあらすじも珍しい。でも『流浪の月』を読み終えた私にはよく分かる。このあらすじを書いた方が、どれだけ苦労したか。

というのも、『流浪の月』で出てくる重要なワードのことごとくが、目にした人に余計な先入観を与えてしまうものばかりなのだ。余計じゃない先入観なんか知らないけれど。

で、私もこの作品を紹介するために、色々考えたけれど、悪影響を鑑みると使いたいワードはやっぱり控えるしかなくて、どうしてもそれは実際に読んでみて確かめて見てほしい…ってやっぱりこんな感じにぼんやりした言葉を書いてしまうのだ。罪な作品ですわ、『流浪の月』。 

 

いじわるな展開

『流浪の月』について語れることは本当にたくさんあるんだけど、まずは一番とっつきやすいところ、というかドラマのメインスパイスになってる部分について。

 

この作品においては、「理解」が「無理解」であり、「無理解」が「理解」として成り立っていること。

ちょっと分かりづらいかもしれないが、食らいついてきてほしい。

 

例えばお節介な人を思い浮かべてほしい。

その人は自分がお節介だとは思っていないだろう。きっと「自分は親切」だと思っている。では親切とは何か。親切とは、他人が欲していることができることだ。

つまり、お節介な人は自らのことを「他人の気持ちを理解している」と、誤った評価を下しているのだ。万死に値する。

 

この厄介さは、実際にお節介で苦しめられた経験のある人なら分かってもらえると思う。

実例を挙げると、私は生またてのハムスターぐらい少食である。それで困るのが、高齢者の親族の家に行ったときだ。

奴らはやたらとご飯を食卓に出す習性があり、「遠慮するな」という鳴き声を発し、私に食べたがりキャラであることを強要してくる。本当に遠慮しない人間になっていいのであれば、そもそもお前らとは会わないし、なんなら撲殺して金を奪って堂々と家に帰って一番風呂に浸かってやる。遠慮しないってのはそういうことだ。違うけど。

 

こんな感じで、『流浪の月』では「自分はあなたの気持ちを分かってる」という全然分かっていない人間が多数登場する。しかし難しいのは、当人たちにはまったく悪意がないことである。善意なのだ。

世界を見渡してみるまでもなく、世の中の多くは善意で回っている。人の善意は確かに必要だ。

しかし万能薬ではなく、場合によっては劇薬となりえる。その辺りの食い違いによって生まれるドラマを、凪良ゆうの筆は意地悪なほどに的確に描いていく。心がぐりぐり刺激されて、とってもキツイ。でも、だから面白い。

 

「分からない」を許容すること

そしてそんな「理解」の顔をした「無理解」に対抗するのが、我らが「正真正銘の無理解」である。

これはどういうことかと言うと、「分かることを放棄した無理解」である。

こうやって書くとよく分かるが、お節介とは対極にある考え方だ。「もうこの人のことは分からない」と両手を上げる。しかしだからといって排除するのではなく、分からないままで許容するのである。なんと素晴らしい距離感、バランス感覚、思いやり。最高である。距離感が適切な人、大好き。

 

これは無関心と非常に似ているけれど、まったく異なる。

存在を認めている、という一点でだ。

 

「愛の反対は無関心」というのはマザー・テレサの名言だが、「分からない」という気持ち悪さを抱えながらも相手の存在を認めることは、間違いなく愛である。

 

理解したがるのは、「見てる側」の利益になるから

それにしてもなぜ私たちは、こんなにも「分からない」が耐えられないのだろうか。そして「分かった」と思いたがるのだろうか。とりあえず形にはめたがるのは何でだろう。

 

何度も書いてるとおり、「分からない」が気持ち悪さを伴うから、というのはあると思う。だから仕方ない、とも。

形にはめれば考えやすいし、取り扱いやすいし、整理しやすい。納得できる。

でもそれはどれも「見てる側」の利益の話であり、「見られている」当事者からすれば関係ない話である。お前らが気持ちよくなろうが悪くなろうが、知っちゃこっちゃないのである。

たまにツイッターで「同性愛者は気持ち悪い」とかいう、脳内が腐敗しきったクソ素晴らしい発言を目にすることがあるけれど、そういうことだ。他人の性癖がどうだろうが、てめえには関係ない。勝手に気持ち悪くなってるてめえの貧素な価値観を恨みな、という話なのである。

 

タイトル回収の仕方

私は芯からの小説好きなので、作品のすべてを楽しみたくなる。中身はもちろんだし、装丁もそうだし、なんなら作者名だって楽しみたい。

で、「タイトルの回収の仕方」をどうするかっていうのも、楽しみのポイントとして重要で、

 

①内容でモロに言及する

②それとなく匂わせる

③タイトルがあらすじになってる

④まったく言及しない

 

ていう4つのパターンがあるんだけど、どれも好き。大好物。

 

タイトルの扱い方で、作者自身の作品や読者に対する距離感みたいなものを感じられてゾクゾクする。④の場合は特にね。

 

『流浪の月』を読んでいる最中は、「これ絶対に①のパターンだ」と思っていたけれど、実際は④。「好きに解釈してください」のパターンである。にくい。

 

『流浪の月』の意味

ではお言葉に甘えて(なんも言われてないけど)、私で勝手に解釈してみたい。

 

「流浪」の部分は中身を読めば大体分かる。実際それっぽい描写が出てくる。ネタバレしない主義なので具体的には言及しないけど、分かりやすい表現だとは思う。

問題は「月」の方。まったく出てこない。ということは、ここに読者の想像を遊ばせる余白がある。

 

このレビューを書くにあたって、月の隠喩を調べてみたんだけれど、これぞというものが見つけられなかった。というか月に関する隠喩って、信じられんぐらいあって、とてもじゃないけれど、調べ尽くせなかった。

でも調べているうちに少し分かったことがある。つまり、月というのはそれだけたくさんの見方があるということなのだ。

様々に形を変えて我々の思いを代弁する月。

しかしそれは月が語っているわけではなく、我々が勝手に読み取っているだけで、月はただそこに浮かんでいるだけなのだ。

 

さっきの「理解」「無理解」の話に通じるのだが、周りからどう見えようとも、当人からしたら関係ないのである。

見る角度や時季、見る人自身の価値観によって、月の形は変わるように「見える」。

でも実際は何も変わっていなくて、むしろ変わっているのは、見る側の受け取り方なのである。

とはいえ実際に月は、丸くもなれば欠けることもあって、どれだけ「見え方が違うんだよ」と諭した所で、「でも実際に欠けてるようにしか見えない」と思ってしまう人はいる。

でも大事なのは、「ない」から「見えない」ではないのだ。「ある」けど「見えない」こともたくさんあるのだ。

 

この「見る側にはつかみきれない存在」の比喩として「月」を使っているのであれば、こんなに完璧なタイトルはないと思う。

私が勝手に考えたことだけれど、もう完全に凪良ゆうが同じことを考えたと思い込んで、鳥肌立ってる。我ながら幸せなやつだ。

 

月であってほしい、と思う

『流浪の月』はとても沈痛な作品である。これでテンション上がる奴はどうかしてると思うし、実際私はかなりテンション上がった。どれだけ沈痛な作品だろうが、切れ味鋭い表現とか発想に触れたら、上がらずにはいられんでしょ。

でも作品自体が持っているテンションで考えたら、主人公たちと共に暗く、沈み込んでしまうような印象を持つだろう。私もそちら側に持っていかれそうになった。

 

しかし、タイトルの意味を考えているうちに、そうではないことに気がついた。

少数派であり、理解者の少ない主人公たちは、孤独かもしれない。多くの人たちとは離れたとこにいるのかもしれない。

だがそれは決して、暗くて低い所にいるのではなく、はるか上に浮かんでいるのだと。新しいカタチとして存在しているのだと。

手が届かない、という意味では同じだけれど、高さが違うのである。孤独だけど孤高だ。より崇高であってほしい。はるか上空に浮かぶ月であってほしいと思う。

 

…とここまで書いて気付いたけれど、私は完全に『流浪の月』の主人公たちが、この現実世界のどこかにいるものとして扱ってる。生き物として扱ってる。

どうやらフィクション世界に完全に食われてたようだ。

 

 

どうせ小説を読むのであれば、夢中になれる作品と出会いたい。

今回はどうやら最高の出会いだったようである。

 

以上。