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半フィクションの楽しみ方が分からない。原田マハ『楽園のカンヴァス』

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どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

先日読んだ本について、モヤモヤするところがあったので、ご報告したい。

 

内容紹介

 

 

ニューヨーク近代美術館のキュレーター、ティム・ブラウンはある日スイスの大邸宅に招かれる。そこで見たのは巨匠ルソーの名作「夢」に酷似した絵。持ち主は正しく真贋判定した者にこの絵を譲ると告げ、手がかりとなる謎の古書を読ませる。リミットは7日間。ライバルは日本人研究者・早川織絵。ルソーとピカソ、二人の天才がカンヴァスに篭めた想いとは―。山本周五郎賞受賞作。

 

賞ものは基本的に認めない私だが、本屋大賞と山本周五郎賞だけは結構信用していたりする。

で、こちらの『楽園のカンヴァス』はそのどちらも受賞(本屋大賞はランクイン)しているのだから、これは期待しない方が無理ってもんである

ということで、もういい年したオッサンなのだが、少年のように期待に胸を膨らませて読んでみた。

これまでの経験から言うと、こうやって私の中で勝手にハードルが上がっているときはろくな結果にならないのだが、そこはほら、あれだよ、学習能力がない人間だから、面白そうな本があると途端に忘れてしまうわけだ。巷ではこういう頭の悪さを”かわいい”と呼んだりするが、それはオッサンにも適用してくれるのだろうか。

 

素直な感想

かわいいオッサンの話をしたかったわけではない。一旦戻そう。

素直な感想を書く。

『楽園のカンヴァス』を高まった期待そのままに、テンション高めで読んだ結果、かなり楽しむことができた。秀逸な物語構成に完全にやられた。

いや、「やられたような気がした」が正確だろうか。

読んでいる最中は物語を楽しむことができた。しかし読み終わった後に、妙な虚しさが出てきたのだ。

「これ確かに面白いけど、史実じゃないんだよなぁ…」

そんな思いに囚われてしまったのである。

 

『楽園のカンヴァス』は作中作の手法を用いて、ルソーの秘密に迫った快作である。当然のことながらルソーは実在の作家であり、彼の生い立ちなども史実として残っている。
『楽園のカンヴァス』ではルソーの生い立ちに”とある仕掛け”を施すことで、物語としての面白さをブーストさせている。なかなか上手い手法だと思う。

だがだ。だからこそ醒めてしまうのだ。

どれだけ面白かったとしても、これはあくまでも原田マハという作家の脳内で創られた物語であり、実際に起ったわけではない。その事実がやけに「つくりもの」を見せられている感覚に繋がってしまうのだ。


そもそもフィクションは作り物

なんとも不思議な話である。

私は読書中毒ブロガーを名乗るだけあり、本に没頭するのは得意中の得意だ。生きることよりも本に没頭する方がラクだ。まあ意味が分からないだろうけど、私も意味が分からないまま勢いで書いているので、真に受けないでほしい。

作品内に没頭すると、それがフィクションだろうが、ノンフィクションだろうが関係なしに感情移入する。完全に登場人物たちと同化する。なので感情は波立つし、すぐに感動してしまう。涙を流すのはしょっちゅうだ。

それくらい「作り物の物語」に入り込んでしまう私が、どうもこの『楽園のカンヴァス』だと入り込めない。物語を俯瞰してしまう自分のままなのだ。不思議である。

 

で、どうやらこの感覚は私だけに限った話ではなくて、他にも同様の感想を見かけた。

 

これは一体何なのだろうか?

ちょっと考えてみたのだが、思うに本を読むときのテンションが影響しているようだ

 

読書に臨む、3つのテンション

私たちが物語を楽しむときというのは、最初に物語に対して自分のテンションを決める所から始まる。

そのテンションというのは、以下の3つのパターンに分けられる。

 

①創作物に対するもの

完全に「つくりもの」だと認識した上で、空想を楽しむつもりになっている。

 

②ノンフィクションに対するもの

今まで知らなかった世界を知ろうとする、好奇心。

 

③歴史小説

史実をもとに「こうだったらいいな」というロマンを楽しむ。

 

この3つのどれかに自分を当てはめることで、物語との距離感を掴み、物語を上手に吸収する。

で、原田マハの作品の場合、このどれにも微妙に当てはまらない。いや、逆か。このどれもに微妙に当てはまってしまうのだ。

たぶん、これがモヤモヤの原因かと思われる。

 

フィクションとしても読めない。ノンフィクションではない部分が多い。歴史ものと呼ぶには創作の部分が物語の肝になりすぎている。

だから読者はどういった立ち位置でこの物語を読めばいいのか、足元が固まっていない状態で読み進めることになる。そして、その不安定さは、物語を読み終えても解消されるわけではないので、なんとも煮え切らない気分になってしまうのだ。

だから私は読み終わったあとに思った。「いったい、どうやって楽しむのが正解なんだ」と。

 

でも評価せずにはいられない原田マハの功績

とは書いてみたものの、それでも原田マハの作品が評価されているのは動かしようのない事実である。これはどう見るべきだろうか。

ひとつに、史実を絡めた物語ではあるものの、それはそれとして、創作物(フィクション)として楽しんでいる人が多い。私にはまったく分からないけど、レビューを見る限り、そういう素直な人が多かったようだ。きっとこういう人は、「無敵のヒーローが現れて、ホロコーストを防ぐことができた」みたいな物語でも楽しめるのだろう。

 

もうひとつは、私と同じタイプの評価をした人だ。そう、まるで面白くなかったとでもいうように文章を連ねてきたが、私は『楽園のカンヴァス』を評価しているのである。

 

『楽園のカンヴァス』の魅力、そして原田マハの功績は非常に単純である。

「絵画を見たくなること」

これに尽きる。

 

原田マハが正真正銘の絵画オタクなおかげで、作中で語られる絵画作品の褒めっぷりがとんでもないことになっている。グルメ漫画を読んでご飯を食べたくなるように、原田マハ作品を読むと、絵画を見てくて仕方なくなる。

私は自分で言うのもなんだが、とにかく芸術に疎い。感性がまったく追いつかない人間だ。

でもそんな私なのに、ルソーの絵を生で見たくなってしまった。味音痴がミシュランの星がついた店に行きたくなるようなもんだ。これは凄いことだと思う。

 

影響力こそが作品の力

私が本を評価する基準のひとつとして、「読んだ人への影響力」がある。

作品として読んだ人の内面にどんな変化を起こしたか、または読んだ人がどんな行動に出るか(わかりやすい例だと、他人に勧めるとか)が、作品の力を量る上で分かりやすい指標になるのだ。

そういう意味で考えると、『楽園のカンヴァス』に限らず原田マハの作品は、読者への影響力が半端ではない。ほとんどの人を“にわか絵画好き”にさせてしまうんじゃないだろうか。

 

小説としての面白さはまずまずだけど、見てもいない絵画作品に興奮させられるなんていう、他の作品では絶対に味わえない体験ができる怪作である。

どうぞお試しあれ。

 

ただ、ルソーの絵はやっぱり私には子供の落書きにしか見えなかった。残念である。

芸術を解する感性がほしい。

 

 

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