『怪笑小説』という作品がある。バカ話を集めたような短篇集である。
書いているのは東野圭吾。
村上春樹の次ぐらいに、普段から小説を読まない人でも名前を知っている作家であろう。
私は小説を書く人間ではないが、それでも彼の才能には嫉妬することがある。彼のあまりにも守備範囲の広すぎる作風も、生み出す珠玉のトリックも、だ。腹立つぐらい素晴らしい作品を発表している。人間としての能力の差をまざまざと見せつけられる思いである。
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ただ、いち小説好きとしてはこんなにありがたい作家もそうそういない。
ひとたび東野圭吾を好きになれば、その膨大な作品群でかなり長い時間楽しむことができるし、多くのジャンルに触れることができるので、読者自身の読書の幅も広げてくれる。
そして何よりも、私ぐらい読書に依存している人間からするとありがたいことがある。
それは日本の小説界への貢献である。単純に言うと金である。小説界に金をもたらしてくれる作家なのだ。
私はすでに東野圭吾の作品にそこまで情熱を持てなくなってしまったが、彼が活躍すること自体は非常に歓迎している。彼の作品がバカみたいに売れれば売れるほど、また新たな才能の発掘や成長に出版社が金を使えるというものである。
さて、余談ばかりが続いてしまったが、今回の記事のテーマである。
東野圭吾を表わす上で一番相応しい言葉はやはり、先程から書いている通り「とらわれない作風」だろう。
とにかく作品の幅が広い。何でもありだ。
そんな彼の作品の中でも特に、「これは別人が書いたものではないのか?」と疑ってしまうようなものがある。
それが『怪笑小説』だ。
怪笑小説 (集英社文庫) | ||||
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年金暮らしの老女が芸能人の“おっかけ”にハマり、乏しい財産を使い果たしていく「おつかけバアさん」、“タヌキには超能力がある、UFOの正体は文福茶釜である”という説に命を賭ける男の「超たぬき理論」、周りの人間たちが人間以外の動物に見えてしまう中学生の悲劇「動物家族」…etc.ちょっとブラックで、怖くて、なんともおかしい人間たち!多彩な味つけの傑作短篇集。
この作品集、なかなかに振り切っている。9つの作品が収録されているがどれもそれまでの東野圭吾作品では考えられないほど、いい意味でふざけている。もしかしたら悪い意味かもしれないが。
基本的には「怪しく笑える」ことをテーマとして書かれているが、普通に笑える作品が多い。しかも中には、悔しいけれども感動させられるようなものまである。
あまりにもふざけた作品が多いので、「アホだなぁ」なんて笑いながら読み、「あー、面白かった」とすんなり読破してしまいがちだが、私は素直に畏怖した。東野圭吾の才能にである。
たしかに表面はふざけた作品集である。だがしかし中身の多彩さ、クオリティ、ネタ、どれもが一味も二味も違う。まさに東野圭吾の面目躍如を果たした作品集だと思う。
収録作はどれも面白いのだが、個人的に好きなのは以下のふたつ。
『超たぬき理論』
少年時代に狸を見た男は、狸には超能力があり、UFOの正体は文福茶釜だと信じ込む。
『あるジーサンに線香を』
医師の新島先生から急に日記をつけてくれと言われたあるジーサン。日記をつけて何日かたったある日、新島先生に実験に協力してくれと頼まれる。
『超たぬき理論』の面白さはなかなか私の拙い筆では表現できない。異常者の論理に振り回される快感とでも言おうか、とにかく読んでいて痛快な作品である。それでいて、テーマは脱力では足りないほどくだらない。なんだ分福茶釜って。どうでもよすぎるだろ。
『あるジーサンに線香を』はびっくりするぐらい、あの世界的ベストセラー『アルジャーノンに』のパクリである。オマージュというには酷似しすぎている。
これが悔しいことに泣ける。そして感動してしまう。
この感動の正体は完全に『アルジャーノンに花束を』由来のものに間違いない。だがきっと読んだ人はみんな『あるジーサンに線香を』自体に感動したと認識していることだろう。卑怯である。でも私も大好きな作品だったりするから手に負えない。
初めて『怪笑小説』を読んだときの衝撃は相当だった。作品のクオリティに度肝を抜かれ、東野圭吾の人外っぷりを思い知らされた。
それにしても、よくもこんな作品を執筆しようと思ったものだ。
はっきり言ってこんなのは悪ふざけ以外の何物でもない。
でもその悪ふざけがこんなにも強烈な印象を読者に与え、しかも私なんかに至っては「今まで読んできた中でも最高の部類に入る」とさえ思っているのだ。
ちなみにこの作品はシリーズになっており、続刊が次々と発表されている。
毒笑小説 (集英社文庫) | ||||
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黒笑小説 (集英社文庫) | ||||
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歪笑小説 (集英社文庫) | ||||
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私は常々、「短編小説こそ作家の才能が出る」と思っている。その点で言えば東野圭吾の才能は問答無用だと思っている。
だがしかし、やはりこの手の才能というやつは旬が存在する。アイデアが切れることはなくても、アイデア自体の質や切れ味が落ちてしまうのだ。それは東野圭吾とて同じである。
最初の『怪笑小説』、次作の『毒笑小説』は文句なしに面白いのだが、残りの2作はどうにも劣化していることを否定できない。あのクオリティを維持するのは東野圭吾といえども不可能だったわけだ。まあ人間らしくていいとも言える。
それはそれとして、彼が実際に悪ふざけを極限まで突き詰めた結果、こんなにも素晴らしくアホらしい傑作集を生み出したことは紛れもない事実である。素直に賞賛したい。
ベストセラー作家渾身の悪ふざけを堪能してもらいたい。
以上。
怪笑小説 (集英社文庫) | ||||
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