どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。
今回の記事は「2018年本屋大賞にノミネートした作品を全部読むまで呼吸禁止」という企画の第8弾である。そろそろ終わりを迎えそうである。この企画も、私の命も。
ちなみにノミネートした作品はこちらの10冊。
そして今回紹介するのがこちら…
『崩れる脳を抱きしめて』!!
『仮面病棟』に代表される“奇想”の名手にして、現役の医師。特異な経歴に好みの分かれる作風で、何かと話題が尽きない作家知念実希人。
そんな彼の“最高傑作”と呼び声高いのが、『崩れる脳を抱きしめて』である。
私からすると、帯の宣伝文があまりにもやかましすぎてウンザリするが、こういう煽りをするときっと売れてしまうのだろう。このやり方が長期的に見たらどれだけ出版業界にとって逆効果なのか分かってもらえないのが悲しい…。
私としては初の知念実希人作品である。
作品を発表するたびに帯に「どんでん返し!」とか「驚愕!!」とか書かれているが、実際の所どうなのか。その実力はいかほどのものなのか。
今回もネタバレ一切無しでこの作品の紹介をしていこうじゃないか。
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地雷臭が凄すぎて…
圧巻のラスト20ページ!
驚愕し感動する!!
これは『崩れる脳を抱きしめて』の帯に書かれた宣伝文である。いや、煽り文句だろうか。どちらにしろ、これを見た私の感想はこんな感じである。
「地雷の臭いしかしねぇ…」
もうね、衝撃のラストとか聞き飽きたよ…。もう腐るほど(私の心が、という意味)言ってきてるけど、「衝撃のラスト」って書かれると、こちらは構えちゃうから、全然衝撃じゃなくなるんだよ。「これから面白い話をしまーす」って言ってスベるのと全く同じ。期待値が上がると途端に面白いものもつまらなくなってしまうの。もう分かって。読者の愉しみを殺さないで。
本当に素直なことを書くと、今回のように「2018年本屋大賞ノミネート作品読破」なんていう機会が無ければ、絶対に手に取らない類の作品である。逆に、この帯が無かったら買っていた可能性は高い。
どんでん返しを舐めんな
という私の愚痴は置いておくとしてもだな、やっぱりこの現状は問題ありだと思うのだよ。
ミステリー小説というものを考えたときに「どんでん返し」と言われることがどれだけ悪影響を及ぼすだろう。
これまで数百冊のミステリー小説を読んできた私自身、「どんでん返し」と知りながら読んで、本当に欺かれた作品は、片手で収まる。もちろん作品名は挙げないが。
逆に知らずに読んで「こりゃ凄え!」となった作品は、それこそ山のようにある。
それくらい「どんでん返し」の期待値は高く険しいのだ。生半可な作品では超えられない壁である。それこそ10年に1作とかそういうレベルだろう。毎年出る10年に1人の逸材とはレベルが違うのだ。
ミステリー小説とは、手品である
まず認識してほしいことがある。
ミステリー小説というものは、文字だけで行なわれる手品なのだ。読者を騙すことがミステリー小説の肝である。
読者に見抜かれたり、「そんな程度かよ…」とがっかりされるようであれば、それはミステリー小説としての価値が無いことと同義である。歌野晶午の『長い家の殺人』のような作品のことだ。まあ、あれはあれでけっこう愛すべき作品だが。
なのでミステリー小説は、その存在自体ですでに「これからあなたを欺きます」と宣言しているようなものなのだ。自らにハードルを設けている、そんないじらしい存在なのだ。
いじらしいのはミステリー小説そのものもそうだし、ミステリー小説なんていう厄介なものを書く仕事をしている作家にも言えることだ。私はミステリー小説作家という非常に困難で、評価されにくい仕事なのにも関わらず、呪われたように作品を生み出し続ける彼らが大好きだ。マゾすぎて抱きしめてあげたくなる。
存在自体でそもそも「読者を欺く」と宣言しているのにも関わらず、さらに帯に「どんでん返しをします!」と書かれてしまう。まるで身体に「ビッチ」と落書きされているかのようだ。哀れでならない。
感動作?それともミステリー?
さて、『崩れる脳を抱きしめて』の紹介をしようと思っていたのだが、全然紹介できていないことに今更気付いた。読み返してみるとただの愚痴のオンパレードである。
というか、紹介すると自分で言っておきながらなんだが、ミステリー小説を紹介しようなんてことが土台ムリな話である。中身に触れるとネタバレになってしまうし、一番語りたいトリックの話はそれこそ本物のデリケードゾーンである。誰かフェミニーナ軟膏持って来い。
さあこのままふざけた感じでこの記事を切り抜けてもいいのだが、さすがに『崩れる脳を抱きしめて』の評価を知りたくてこのブログに来た方に申し訳ないので、少しばかりこの作品の問題点について語りたいと思う。少しでも参考になればいい。
まず、『崩れる脳を抱きしめて』は恋愛小説と位置づけられる作品である。そしてもちろんミステリー作品である。どちらが本筋かと言われると、私の読んだ印象では確実に“ミステリー”に軸足を置いた作品である。
恋愛ミステリーなんてクソダサいジャンルにしてもいいだが、あまりにも芸がないし、私はそれほどこの作品が“恋愛”をテーマにしているように感じなかった。物語に含まれるすべての要素は、ミステリー小説の小道具として持ってきたに過ぎないように思った。
で、これが問題なのである。
先日書いた伊坂幸太郎の『AX アックス』の記事でも触れたが、ミステリー小説という生粋の“作り物”において、作中でどれだけ激しい恋愛模様が描かれようが、悲哀に満ちた人生が語られようが、「どうせなんかのトリックに関係してるんでしょ?」という冷めた目線になってしまうのだ。
では、と逆にトリックなどとはまったく関係なしにそういったドラマを本気で描いたら、それはそれで「余計な話が多すぎ」なんていう評価を下される。ミステリー小説の読者は常にクソ野郎だ。本当に勝手な奴らだ。だからこそそんな読者に腹を立てた東野圭吾御大は『どちらかが彼女を殺した』のような作品を上梓した。ちなみに私は完全にクソ読者のひとりなのでこれは読んでいない。答えが書いてないミステリー小説なんか誰が読むか。はっはっは。
『崩れる脳を抱きしめて』を読んでみて、ミステリー小説としての完成度は相当なものだと思う。5点満点で言えば4点、という所。しかし恋愛小説や、あのクソ帯のクソ煽り文句に書いてある“感動作”という点で見ると、ほぼゼロである。
ただ単に私の心が腐っているだけかもしれないが、まったく心に響かなかった。残念である。これでもけっこう感動屋なのだが…。
ということで、『崩れる脳を抱きしめて』に対する私の評価をまとめると以下のようになる。
・ミステリー小説としては上出来。上の下、ぐらい。
・どんでん返しは不発。そんなもんに期待するな。
・恋愛?感動?
なんかボロクソに書いてしまったような気がするが、作品自体はサクサクと読めたし、謎が暴かれていく手際の良さは、さすがの一言である。それにバックボーンになっている医療知識が本当に骨太で、語り口の確かさがやっぱり違う。安定感がある。島田荘司が認めるだけのことはある。
だから本屋大賞で上位に食い込んでも全然不思議じゃないと思う。実際過去に『謎解きはディナーのあとで』なんていう駄作が大賞を掻っ攫ってるし…ってこれだとフォローにならないか。
墓穴を掘るだけなので、もう終わりにする。
以上。
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