これからはこの手法が流行るかもしれない。
濃厚&邪悪な刑事ドラマ
どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。今回も面白い小説の紹介。
それがこちら。
昭和63年、広島。所轄署の捜査二課に配属された新人の日岡は、ヤクザとの癒着を噂される刑事・大上とコンビを組むことに。
飢えた狼のごとく強引に違法捜査を繰り返す大上に戸惑いながらも、日岡は仁義なき極道の男たちに挑んでいく。
やがて金融会社社員失踪事件を皮切りに、暴力団同士の抗争が勃発。衝突を食い止めるため、大上が思いも寄らない大胆な秘策を打ち出すが…。
正義とは何か。血湧き肉躍る、男たちの闘いがはじまる。
映画化も決定した本作。一体原作はどんな仕上がりになっているのか。
毎度のことながら、映像の方はまったく興味ないのだが、映像化作品の原作に採用されるということは、当たりの確率がかなり高いので手を出してみた次第である。
で、これが大当たり。
別の作家を引き合いに出して評価するのも申し訳ないのだが、横山秀夫の刑事ものを読んでいるときと同じぐらいの濃厚さを感じた。
これは私の中では最上級の褒め言葉である。刑事もので横山秀夫以上の面白さを発揮できる作家は私の知る限りいない。
そういえば、読んでいる最中は忘れていたけど、書いているのは女性作家。とてもじゃないけど信じられない(差別発言か?いや、褒め言葉…と言うのも差別になるのか。難しいな…)。
凄惨な描写に迫力満点のヤクザに刑事。ヤクザ同士のドロドロの抗争も完全に『仁義なき~』の世界観は完全に“漢”である。一体何者なのだろうか?時間があるときに調べてみよう。
当たる公式
主人公の日岡は新人刑事。タッグを組むのは老獪刑事の大上。出会い頭から強烈な印象を残す大上だが、この物語の中でも最高に魅力的なトリックスターの役割を担っている。
こういった刑事とヤクザもので大事なのは、ヒリヒリとした緊張感。それに暴力性。そして忘れていけないのが、搦め手である。
ヤクザにしても、それに対抗する刑事にしても、正攻法では通用しないのが両者である。もちろん警察組織内でもそれは同じであり、そこを鮮やかに切り出してみせたのが横山秀夫だ。
話はそれたが、この作品の最大の見所である“ガミさん”こと大上の手から次々と繰り出される手練手管は痛快そのもの。最初はその下品なキャラに眉をひそめてしまうかもしれないが、次第に魅了されることだろう。次に彼が何をするのか楽しみになっている自分に気が付くはずだ。
正直な話、こういったヤクザ刑事としてはステレオタイプもいいところなキャラだ。何の意外性もないと言っていいだろう。しかし面白いものは面白い。「ヤクザに強い刑事」という公式に当てはめると一定の面白さは担保されてしまうという典型例だ。
それにしても、捜査2課(暴力団捜査)の刑事たちの大迫力といい、ヤクザの強面っぷりといい、繰り返してしまうが女性が生み出したキャラだとはとても思えない。広島弁もそれに拍車をかけてるし。
横山秀夫の場合、元新聞記者で現場を体験している人間だからあれだけの迫力を出せるのも頷けるのだが…。柚月裕子とは一体何者なのか。
切れ味抜群のミステリー要素
濃厚なハードボイルドというだけでも、この作品は十分に評価されるだけの力を持っているのだが、それに加えてなんと“日本推理作家協会賞受賞”である。つまり上質なミステリーでもあるということだ。
ミステリーとは言ってもその範囲は非常に広い。
密室、閉ざされた雪の山荘、みたいなゴリゴリのミステリーもあれば、「この物語はどこへ向かうのか?」的なライトなものまである。
要は物語に謎さえあればそれはミステリーと言える。けっこう小説のジャンルなんてアバウトなものなのだ。
少女がささいなことをキッカケに時間旅行をしてしまうものから、宇宙を舞台にした重厚な戦争ドラマまで内包するSFと同じである。そもそもフィクションである時点でSFと言えるだろうし。
で、『孤狼の血』のミステリー要素がどれくらいか説明したいところだが、それはあまりにも無粋である。どれくらいの謎が用意されているのか教えるなんて、読者の楽しみをこれほど奪うことは他にないだろう。ということで、それは読んでからのお楽しみ。ただ言えるのは「さすが日本推理作家協会賞受賞作」ということだろうか。
ドラマ化、映画化するのも当然
今回私が『孤狼の血』を手に取ったのは映画化の話を耳にしたからである。実際読んで分かったが、これが映像で映えないはずがない。というか、みんなこういうのに飢えてる。
映像で映えるのは、極端に綺麗なもんか、極端に汚いものだ。『孤狼の血』はもろに“汚い”。日常生活を営む我々のような普通の人からすれば、それはエンタメとなりえる。つまり非日常である。
ただ、一点問題がある。
それは「孤狼の血を忠実に再現しようと思ったら、それは不可能」ということだ。
それはこの作品の持つ面白さゆえもあるし、ミステリー要素のせいでもある。その要素を映像作品で生かすことはできない。詳しくは書けないが、まあムリなのだ。
映像と小説の客層の違い
しかしだからと言って、映画の方に『孤狼の血』の面白さが表現できないとは思わない。まったく思わない。全然思わない。むしろハマるだろう。その理由はさきほど書いた通り。
それに、原作小説とまったく同じものができてしまうのであれば、それは映像化する意味があまりないように思う。
そもそも小説と映像作品では狙う客層が違う。
普段から小説を読む人なんて1%以下だ。それに対して、映画やテレビを見る人は視聴率や興行成績なんかを見れば分かる通り、日本の大多数を占める。
そんな大勢を相手にする媒体であれば、原作のちょっとした魅力が損なわれようが、改変があろうが関係ない。男気満点の中年刑事が、映像の方では売れっ子の美人女優になっても仕方あるまい。得られる利益は桁違いだからだ。
大体にして本は売れない。最近は映像作品の原作になるか、何か話題性を持っているか、人気作家の最新作じゃないとダメなのだ。
逆に映像作品の方は、世の中の売れている作品から面白そうな原作を選び放題で、そのチョイスさえ外さなければ当たる。そして良質な小説は溢れかえっている。それは間違いない。私が日々身銭を切って知っている事実だ。
これからの戦略
これは小説というコンテンツを作る人間にとって、非常に大事なことだと思うし、これからの主流になるだろう。あくまでも多大な収益を狙うのであれば、の話だ。
小説と映像が違う客層を狙っている以上、それぞれの強みを兼ね備えている作品にするのがベスト。
つまり小説であれば「映像化不可能」。映像作品であれば「画になる」。
具体例を挙げると吉田修一の『怒り』だろう。
原作はミステリーの手法を存分に活かしているけれど、それはあくまでも小説上でしか機能しないものだ。その効果によって最高のリーダビリティを生み出していた『怒り』。
だけど、映像化は大成功。なぜなら「画になる」要素があったからだ。もちろんその要素についてはネタバレになるので詳しくは書かない。ちょっと書くと、赤字の“あれ”で埋め尽くされたシーンである。
この手法を使うことによって、映像作品に客を呼び込むことができるし、さらにはその客層が新たな面白さを求めて原作に手を出して貰えるようになる。
簡単にまとめると、映像媒体の客は強烈な一発を求めている。数秒で興味を惹くようなものがなければスルーしてしまう。それを許してしまうぐらい、世の中には強烈なものが溢れている。
一方小説好きというのは、ある程度の変人というかマニアなので、少しぐらいかったるい仕込みをしたとしても、完成度やアイデアさえあれば評価してれるのだ。まあ、私のことである。
ということで、映画が公開されたあと、どんな作品が市場に出回るか、これからちょっと楽しみにしている次第である。
以上。
読書中毒ブロガーひろたつが、生涯をかけて集めた超面白い小説たちはこちら。