司馬遼太郎作品を読み漁っててつくづく思う、こんなにおしゃべりな作家は他にいない。
どうも。読書ブロガーのひろたつです。大河の『真田丸』から歴史ものにハマりだしました。ニワカです。どうぞよろしく。
さて、今回は紹介するのは天才司馬遼太郎による大阪城落城を描いた『城塞』である。『真田丸』の主役である真田幸村の最後も描かれていて、ほとんどそこの興味だけで読んだのだが、さすがの司馬遼太郎。どっぷりと戦国世界に浸らせてくれた。
ほんとに、この御方の新刊が読めないのが残念でならない。
内容紹介
秀頼、淀殿を挑発して開戦を迫る家康。大坂冬ノ陣、夏ノ陣を最後に陥落してゆく巨城の運命に託して豊臣家滅亡の人間悲劇を描く。
なんとまあ簡素な説明であろう。
これだけを読むと非常に薄っぺらい作品に思われるかもしれないが、実際は上中下巻、トータル1800ページ!読み応え抜群である。
さきほども書いたが、司馬遼太郎がこれでもかと語りまくるので、ぐいぐいと戦国世界に引き込まれてしまう。こんな人が日本史の先生だったら、私だってもっとまともに学校に通っていたと思う。
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戦国時代の終わり
豊臣家の滅亡ということで、実質的にはこれにて日本の戦国と呼ばれる時代は終わりを告げる。
戦国時代の終わり、しかも天下を治めた豊臣家の滅亡ということで、かなり派手な戦いを想像されるかもしれない。たしかにその側面はあるし、真田幸村に代表される豊臣方の戦いっぷりは興奮しっぱなし。大河のときよりも真田幸村を好きになった。あと毛利勝永。格好良すぎる。
でも戦国時代の終わりの時期であるがゆえに、生粋の侍魂を持った武士というのが絶滅しかけていて、それは滅亡される豊臣方も、滅亡させる徳川方も同じ。
それゆえに、派手な戦闘がある一方で、腰の抜けた人間同士の泥仕合もある。それも込みで楽しめるだろう。
死に様に求める美しさ
腰が抜けているのは平和を築いてしまった徳川方の方が顕著で、人は平和になって安心を覚えてしまうと、途端に命を惜しみ出すのだとよく分かる。
一方で、関ヶ原で領土を奪われ、明日の命も知れぬような生活をしていた浪人たちを集めた豊臣方は、まさに必死。勝つことそれよりも、いかに自分の命を美しく散らすかということを念頭に置いていたようである。
この辺りの価値観は、さすがに現代の我々には理解できない。
だが、彼らの生き様、そして死に様には確かに美しさを感じしまうし、だからこそ戦後400年以上経った今でも、彼らのファンが絶えないのであろう。
たぶんだけど、今の私なら幸村の墓所(実際は供養塔)なんて行った日には、その場で泣くと思う。
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愚かなトップさえいればどんな組織もイチコロ
豊臣方は色んな意味で愚かだった。徳川家康がクソ野郎すぎたのもあるが、豊臣家が生き残る方法はいくらでもあった。
でもそれらの可能性を、豊臣家のトップたちがすべて潰してしまった。
真田幸村がどれだけ策をこらし快進撃を食らわせたところで、トップの愚かな決断がその成果を水泡に帰してしまった。
この辺りは、経営陣に振り回されて割を食っているサラリーマンを見ているようで、なんだか共感してしまう。まあ私の場合、幸村みたいな優秀さは持ち合わせていないのだが…。
豊臣家のトップたちは、自分たちの実力を見誤り、過大評価し、過去の威光を忘れられず、そして保身に走りすぎたためにすべてを間違えた。家康は舌なめずりしながら、彼らが転落するのを手助けしていた。きっと面白いように転がり落ちていく様子を、家康は快感に包まれながら見ていたことだろう。
家康のことが嫌いになります
さきほどから家康のことを悪く書いているのも、完全に司馬遼太郎の影響である。今までそんなこと考えたことなかったし、むしろ日本を300年もの間、無戦争状態に仕立て上げた偉人として好感を持っていたぐらいだった。
でも司馬遼太郎作品での家康の書きっぷりを見たら、嫌いになってしまった。
たぶんみんなも同じような感想を抱くと思っているのだが、もしかしたら私は、あまりも政略的な才能に溢れている家康に嫉妬しているだけなのかもしれない。
家康はとにかくずるい。だが“ずるい”、というのはそれなりの頭脳がないとできない。
それが悔しくて余計に家康のことを嫌っているのかも。いや、でも本当にクソ野郎なんだけどね。あの「鐘銘事件」とか、腹が立って仕方なかった。
余談だが、あまりにも腹が立ち、ぜひとも誰かに共感してもらおうと思って会社の同僚に家康の悪事について事細かに説明してみた。
そしたら、「『信長の野望』でと家康って、パラメーターが高いから嫌いになれない」とのことだった。『信長の野望』もついでに許さん。
際立つのは人の“愚かさ”
死に場所を求めて美しく散る者。
自らの価値を見誤って転落する者。
ひたすら利を求めて裏切る者。
情報という最強の武器のために間者(スパイ)として生きる者。
自分の人生を決めることができず、ただただ流される者。
臆病ながらも細心の注意を払いながら野望を果たそうとする者。
時代のうねりの中で展開される数々の人間ドラマを『城塞』では見ることができる。
そこには人間の美しさもあれば醜さもあり、そして何よりも愚かさが際立って見えてくる。
人はなぜこんなにも愚かになってしまうのか。
名前は知らないが、高名な歴史学者の方がこんな言葉を残している。
「未来は懐かしい。過去は新しい」
私たちは過去から学ぶことができる。そして未来に活かすことができる。過去と同じことをすれば、同じ未来がやってくる。ビル・ゲイツやマーク・ザッカーバーグといった一流の経営者たちが歴史の勉強を大事にしているのは有名な話である。
そんな偉大な彼らとは到底肩を並べることはできないが、私なりに『城塞』から学べることを見出してみる。
人を愚かにするもの
『城塞』で見られる多くの愚かさは、何を発端としているか。
情報、環境、境遇、無知などなど要素はたくさんあるだろうが、結局のところまとめると、「バイアス」、これに尽きる。
人を愚かにするものはバイアス以外にあり得ない。
秀吉の側室であった淀はいつまでも豊臣家の威光を忘れられなかったし、家康の言動を自分の都合の良い方向にしか理解しなかった。
その様はひどく滑稽で、哀れでもある。
彼女は最後の場所となった狭苦しい蔵の中で、一体何を思ったのだろうか。きっとバイアスにかかりきった歪んだ景色を見たのではないだろうか。
豊臣軍の総指揮を司っていた大野修理もそうだ。
彼も(家康の工作に踊らされたとはいえ)非常にバイアスに染まった人間だった。人の上に立つべき人間ではなかった。
とはいえ、この“バイアス”というやつは本当に厄介で、相当頭の良い人でも逃れることは難しい。簡単に取り払えるような類のものではないのは、皆さんご承知の通りである。
でも、実は優秀さというのは、この自らにかかった呪いである“バイアス”を如何に取り除けるかにある。
自らの考え疑い、見えている真実を立体的に見ようとする習慣が、少しずつこの強固な呪いを解いていく。
それにしてもこうやって考えていると、人間の完全なる欠陥だと思うことがある。
他人のバイアスや欠点というのは簡単に分かるのに、なぜ一番よく理解しているはずの、自分のバイアスや欠点は見えないのだろうか。
困ったものである。そして困りながらも、人は生きていくものだったりする。
以上。