このタイトルの酷さは確実に売上に影響してる。
どうも。ミステリー中毒のひろたつです。チャットはやったことありません。
今回は私の大好きな変態作家、歌野晶午の野心作を紹介。
内容紹介
〈頭狂人〉〈044APD〉〈aXe〉〈ザンギャ君〉〈伴道全教授〉。
奇妙なニックネームの5人が、ネット上で殺人推理ゲームの出題をしあう。
ただし、ここで語られる殺人はすべて、出題者の手で実行ずみの現実に起きた殺人なのである……。
リアル殺人ゲームの行き着く先は!?
歌野本格の粋を心して堪能せよ!
歌野晶午と言えば、あの泣く子も黙り老人は喋り出すほどの傑作『葉桜の季節に君を想うということ』である。確実に彼の代表作であり、最高傑作だと評価している。
だが、だ。
今回紹介する『密室殺人ゲーム王手飛車取り』は、歌野作品の中でも非常に価値ある作品として、私は位置づけている。
あまりにも地味なタイトルから評価が低くなっていることだろう。
一人でも多くの方にこの“怪作”の破壊力を理解してもらえたらと思って、筆を取った次第である。
では行ってみよう。
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ネット文化を利用した野心作
執筆されたのが2007年とあり、若干ネット文化に違和感を持たれるかもしれない。
ただ、この作品の肝はそんなところにはない。どうか気にしないでもらいたい。
そしてタイトルがこんなんにも関わらず、将棋はまったく関係ないこともここに記しておこう。
まずこの『密室殺人ゲーム』の何が素晴らしいかと言うと、当時ネットを使った犯罪が世間を賑わせており、ネットの評判がかなり悪くなっていた。人によっては「ネットを匿名で使うのは禁止するべき」なんてことも言っていたぐらいだった。
そんな状況にこんな作品を放り込んできた。というか、きっと歌野晶午は実際の事件に触発されてこんなどうしようもない作品を思いついたのだろう。
実際、発売されたときは「不謹慎すぎる!」「真似するやつが出てきたらどうする」的な発言をネットでよく見かけたもんである。
勇気があるとも言えるし、ミステリー作家という不謹慎な職業に魂を売っているとも言えるだろう。
どちらにしろ歌野晶午が変態であることには変わりないだろう。
歌野晶午は成長し続ける
別の記事でも書いたことがあるが、歌野晶午というミステリー作家は、他のミステリー作家とは違った特徴がある。それが、
成長し続ける。
という特徴である。
私の観測範囲内でしかないが、この特徴を持っているのは歌野晶午だけである。
ミステリーというのはトリックやアイデアがモノを言うジャンルだ。そういった鮮烈な感性はやはり若い内の方が発達していて、年を重ねるごとに輝きを失うのが普通だ。
だがそれでは落ちる一方なので、人によっては技を磨いたり、ジャンルを変えたりするのだ。
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可能性を広げる、という才能
そんな中で歌野晶午である。
彼は常に革新的なミステリーを生み出そうと藻掻いている。そう藻掻いているのだ。
コンスタントに素晴らしい作品を生み出しているので、もしかしたら人によっては歌野晶午を天才型の作家だと勘違いしているかもしれない。
そんなことは全然ない。
そもそもデビュー作の『長い家の殺人』からして酷いもんである。読めたもんじゃない。いや、逆に評価したくなるぐらい酷い。
普通の作家であればボツにするようなアイデアだとしても、歌野晶午は作品として上梓してしまう。そしてボロクソに貶される。でもめげない。
この姿勢が素晴らしい。
人によっては捨てる可能性を追求する。食らいつく。批判されようが関係なしに発表する。未完成だろうが、不格好だろうがお構いなしに作品という形にしてしまう。
その結果どうなったか。
例えば、『ガラス張りの誘拐』という作品がある。
はっきり言って駄作である。
しかしこの後に発表された誘拐もの、『さらわれたい女』は名作である。歌野晶午の奇想が炸裂している。
他にも『世界の終わり、あるいは始まり』という問題作がある。問題作と書くと良い方に誤解されそうだが、ただの困ったちゃんである。不発弾だ。
しかしこの作品の世界観というか、そこから着想を得たと思われるのがこれである。
このように失敗というかチャレンジの先に、今までの歌野では書けなかったような作品を生み出しているのだ。
他の作家にはない「可能性を広げ続ける」という才能が歌野晶午にはある。
最大の壁を超えろ
自らが建造してしまった『葉桜』というあまりにも大きな壁。
しかし歌野は、これさえも乗り越えようとまたしても藻掻く。
『女王様と私』である。
素晴らしい装丁に騙されてはいけない。こちらもなかなかの困ったちゃんである。
さあ、これまでの流れを見れば、歌野は『女王様と私』という失敗作を使って、新たな作品を、『葉桜』を超えるような作品を生み出すはずである。
…しかしさすがにそれは無理だった。
『葉桜』という壁はあまりにも高く。歌野晶午という稀代の作家の才能を持ってしても、超えることは叶わなかった。
潔く方向転換
歌野晶午は『葉桜』のような作品ではもう新たな可能性を生み出せないと諦めた。
そう、潔く『葉桜』という宝を手放し、方向転換をしたのだ。「最後の衝撃!」なんて帯が書かれそうな作品はもう書かないことにした。
さあ、やっと本題に入れそうである。どんだけ回り道をしてるんだ、という話だ。一体どれだけの人が付き合ってくれているのだろうか。
そして方向転換した先にあったのが、『密室殺人ゲーム王手飛車取り』である。正確には 『密室殺人ゲームシリーズ』である。
歌野は苦しんだはずだ。『葉桜』という傑作を超えることができない自分自身に。
『葉桜』レベルの衝撃を生み出したかったはずだ。
しかしそこに執着せず、「ミステリーというのは、読者を欺いてなんぼ」ということを思い出したのだろう。
あのトリックを使わずとも、読者を鮮やかに欺ける方法を見つけてしまったわけだ。
すべては歌野の作品作りにおける姿勢から生まれたものである。
彼の作品や才能よりも、その姿勢を私は何よりも評価したい。
型にはまらない
このように歌野晶午は常に自らの殻を破り続け、そして成長してきた。ときには迷走することもあるが、それでも確実に名作を生み出し続けてきた。
そして同じような作品を作らない。常に新たな可能性を切り開き続けている。
きっと、一度良いアイデアを思いついたりしたら、それを利用して同じような作品を書き続けることだってできたはずだ。その方がラクだし、発行部数は稼げたと思う。
だけど歌野はそうしない。
今回紹介している『密室殺人ゲームシリーズ』もシリーズとは語りつつも、その中身は歌野らしく、まったく違う装いに仕上げてある。その辺りも醍醐味だ。
この記事を書いているのが2017年7月。
今のところ、歌野晶午という変態作家はその姿勢を崩していない。
彼の生み出す奇想も、そして駄作も込みで、これからも愛し続けたい作家である。
以上。