どうも。
私は職場ではリーダー的な役職を任されている。だからお金を毎月貰えている。
だがひとつ私には決定的な欠陥がある。
それが「不謹慎なのが大好き」というものだ。
悪癖だけどどうしようもない
職場でどんなまずいことがあろうと、それを使って笑いを取ろうとしてしまったり、会議の席でのブラックジョークは日常茶飯事だし、とにかくもう不謹慎な笑いが大好物である。
たぶんだが上司も困っていると思う。だけど今の立場を任せられるのが私しかいないので、仕方なくそのまましているだけで、まともな会社だったら降ろされていると思う。
自分でも「さすがにやりすぎたか」と反省するときも半年に一回ぐらいあるが、こればっかりは嗜好とか性癖に近いものなので、死んで生まれ変わりでもしない限り治らないと思う。強烈な事故に遭うとか。
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実は不謹慎で成り立ってる
言い訳じみた話になるかもしれないが、実は世の中は不謹慎で回っていると言っても過言ではない。
というのも、世のエンタメと呼ばれるものは不謹慎があるからこそ面白いのだから。
みんなが大好きな映画もアニメも小説も漫画も、それこそディズニーだって不謹慎が含まれている。
エンタメの本質
エンタメというのは結局の所、ストレスと緩和である。その落差で快感を得るものだ。
分かりやすい例だと「死」がある。
「死」は生きている人間に強烈なストレスを与えるアイテムである。もちろん、エンタメ作品上ではという意味である。
誰かが死ねば物語は盛り上がる。ハリウッド映画だったら、つかみ程度のレベルで誰かを殺す。それぐらいポピュラーである。ディズニーだって平気で死を扱う。
だが、一方で日常生活の中での「死」はどうだろうか?身近な人がジェイソンに殺されたとしたら大問題だろう。ニュースはこぞって騒ぎ立てるはずだ。
そんなものをみんな「快楽の道具」として使っているのだ。
これを不謹慎と言わず何と呼ぼうか?
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物語は大好きだけど
物語の中では悪は懲らしめられるべきだし、モブがいくら殺されても誰も悲しまない。
そこには「死んでもいい人」と「生き抜くべき人」という価値観がいつでも横たわっている。
これも非常に不謹慎である。
私が今から街の中に行って、「世の中には死んだ方がいい人います!」と騒いだらどうなるだろうか。意外とみんな放っておいてくれるかもしれない。危険に近づかないようにするのは動物の本能だし。
まあそれだとしても気持ちの良い人はいないだろう。きっとみんな眉をひそめるはずだ。
コナン君は大量殺人鬼
私の息子(4)はコナン君が大好きである。推理とかはまったく理解していないが、とにかく毎日のように観ている。
そうなると彼は間違いなく、毎日のように殺人に触れることになる。意味を理解しているのか分からないが、とにかく彼の瞳の中では殺人が繰り広げられている。
『名探偵コナン』はコナン君がどれだけ賢いか凄いかを楽しむアニメである。頭に角が生えたJKとの恋愛というイカれた設定もあるにはあるが、形骸化している面は否定できないだろう。
しかしコナン君の優秀さを確認するだけのためにあれだけの人間が死ぬ必要があるだろうか?モブとはいえ彼らにはそれなりの人生があったはずなのに。
彼のためにどれだけの人間が死んでいったことか。完全に大量殺人鬼である。
なんてことを考えるとコナン君は不謹慎の極みだ。だけど毎年全国の映画館で新作が上映されているし、なんならテレビでもしょっちゅう放送されている。
これを不謹慎t(以下略)
不謹慎というのは存在しない
なので何が言いたいかと言うと、結局、不謹慎なんてものは存在しないんじゃないか?ということである。
そこにあるのは、不快に思う人と楽しむ人の“落差”があるだけだ。あとはその割合だけだろう。大多数であれば許されるし、少数だったら非難される。
芸人の葬式というのは笑いに包まれるそうだ。故人の死に顔を見て笑い合うなんてのは挨拶レベルなのだとか。死体を使って遊んだりもするらしい。
そこには私たちが経験するような葬式の姿はないが、不謹慎だとは感じない。
結局はすべて「空気」という、いつものやつに落ち着くのだろうか。
そうなると説明はとてもじゃないができなくなってしまう。
やっぱり不謹慎は難しい。不謹慎を笑いに使うのはあんなに簡単なのに。
以上。
故人を使って遊ぶ様子はこの作品に記されている。2ちゃんねるで有名な「そそ」のコピペの元ネタでもある。
寝ずの番 (講談社文庫) | ||||
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