齢33にして、最近気がついたことがある。
それは
ブタメンが永遠にうまい
ということである。
今回はそんな大事な話をしたい。
駄菓子界の彗星
さて、皆さんはブタメンを御存知だろうか。ブタみたいな男の蔑称ではない。
駄菓子界の圧倒的ご飯。おやつカンパニーが生み出した完全食。小学生のらーめん二郎。いくらでも二つ名を生み出せる傑作駄菓子。
それがこちらのブタメンである。
どうだ、この佇まい。
鮮血を思わせる赤いボディ。
中心に光るは稲妻だろうか。
そして小学生が利き手じゃない方の手で無理やり書いたような拙いブタのイラスト。なんで目があんなぐるぐるなんだ。たまに生えてる膝に埋没してる毛のようだ。@みたいなあれだ。
そういえば日本でよくやるこういう「食材を宣伝に参加させる」という文化はどうなのだろうか。
焼肉屋の看板で牛のイラストが「オイシイよ!」とか言ってるのをたまに見かけるけど、心優しい私からすれば残酷な光景すぎる。死体をオモチャにしているような狂気を感じる。
ああ、そういえばオモチャの「お」は丁寧にする言うときの「お」なので、正式には「モチャ」らしい。みんなが遊んでいるのは「モチャ」だ。本来なら「モチャのチャチャチャ」だ。ついでに言えば「大人のモチャ」だ。これはそれっぽいから良いかもしれない。何が良いのか知らんけど。何がそれっぽいのかも知らんが。
そんなことはどうでもいい。
今回私が言いたいのは、もっとブタメンの根本部分に関わることだ。脇に書いてある「豚(トン)でもないウマさ!!」とかはどうでもいいのだ。「とこ豚(トン)うまい!!」ver.もあるらしいが、どちらもクソほどスベっていることを明記しておこう。
さて、私が今回皆さんに伝えたいのは、「ブタメンが永遠に美味しいんだけど」ということである。うん、さっきも書いたよ、知ってる。年をとると同じことを繰り返したくなるんだ。老人には優しくしよう、と言い出したのはきっと老人だ。騙されないように。
ブタメンの記憶
いい加減本題に入る。
と、書いたところで舌の根も乾かぬうちに話を逸らそう。ブタメンについて皆さんの記憶を呼び戻してもらいたい。
初めてブタメンを食べたときのことを覚えているだろうか。私はよく覚えている。
今ではめっきり見かけなくなったが、私が子供の頃は駄菓子屋がそこら中にあった。まあさすがにそれは言い過ぎだし、単なる大嘘なのだが、ひと地区に1軒や2軒は駄菓子屋があったように思う。
駄菓子屋はある種の階級社会である。低学年のクソガキはまだまだ駄菓子屋の内部を把握しておらず、楽しみ方を一部しか知らない。上級生のクソガキたちがしていることを遠巻きに眺めながら「奴らが狂喜乱舞しているあの紙は一体なのか?」「じじいが出ると何かあるらしい」などと疑問を膨らせている。
そのうちに気付く「なんかご飯みたいなの食ってる」と。「レジの奥でおばちゃんから、お湯もらってる」と。これが私がブタメンとファーストコンタクトを取った瞬間である。
よくは分からないけど、絶対に美味しいであろう謎のラーメン。駄菓子屋という子供の世界に存在するカップラーメン。
ブタメンはカテゴリー的にはカップラーメンに分類されると思う。カップラーメンは食事である。食事は大人が用意するものだ。なのに、それが子供の世界である駄菓子屋に存在する。多少値は張るが、手の届かない金額ではない。「自分にもご飯が買える…?」。まるで世界を自分の手で広げるかのような感覚があった。
初めておばちゃんからお湯をもらうときは緊張した。
なにせ今までは
おばちゃん「◯円だよ」
ガキ「はい」
という乾いたやりとりしかしてこなかった関係である。こちらはお菓子を渡し、おばちゃんが料金を言う。こちらはお金を払う。非常にビジネスライクな関係だ。
それがどうだろうか、今度は「お湯ちょうだい」だ。金額を言われるがまま支払っていただけの木偶の坊ステージとは全く違う。場のイニシアチブは完全にこちら側だ。指示を出す側と従う側になっている。子供ながらに今までのおばちゃんとの関係から、一線を超える緊張感を感じていた。まるで、今まで挨拶しかしたことがなかった女性に「遊びに行きませんか?」と声をかけるような緊張感だ。
生まれて初めて食べるブタメン。それはおばちゃんとの一線を越える「お湯ちょうだい」を乗り越えた先にある達成感と、まだ一線を越えられていない同級生or下級生に対する優越感が入り混じった至福の味だった。わざわざみんながいる所で食べる。分かるよ、みんながこちらを見ているのが。
「あいつご飯食べてる」
「上級生と同じもの食べてる」
そんな視線を感じる。さっきまで店内でおばちゃんに声をかける勇気が出なくてもじもじしていたことなどおくびにも出さずに、「いつも食べてるから」みたいな顔で啜るブタメンはこれまでの人生で一番美味かったかもしれない。ああ、なんだこれ、書いている内に涙出てきたんだけど。
女性はどうか知らないが、男は本当に愚かなのでこういう「お前らと違って、俺はこんんな経験してるぜ」みたいなマウントを取るのが本当に好きだ。
たかだかブタメンひとつとっても、それこそ童貞と非童貞ぐらいの差を感じる。
そう、ブタメンとは言い換えるならば、駄菓子屋のおばちゃんとの性交渉なのだ。まあ、多分違うけど。
そして現在
で、現在に話は戻る。
私は駄菓子屋のおばちゃんとのロマンスを繰り返した愚かな小学生から、子供3人を抱える愚かな父親になった。あえて成長したとは書かない。属性が変わっただけで成長したと言い張る気はない。
子どもたちもそれなりに大きくなり、一緒に買い物に出かけることもある。
そこで久しぶりの出会いがあった。駄菓子屋のおばちゃんとではない。ブタメンとである。家族といるときに昔の女と出会うとか地獄でしかないから。というか駄菓子屋のおばちゃんを昔の女扱いするのをもう止めてもらえないだろうか。
子どもたちはびっくりしていた。「なんでお菓子のところにご飯が置いてあるの?」という感じだった。
懐かしいと思いながら人数分購入。早速家に帰って食べることにした。
相変わらず開けにくい蓋。ちょっと気を抜くと破けそうだ。そういえば子どもの頃は、この蓋をいかに破かないように開けるか、友達と競ったなぁ。
中身は非常に素っ気ない。粉をまぶした乾燥麺が入っているだけ。なんの栄養素もない、THE駄菓子だ。
(蓋裏に書かれた情報レベルの低さが、最高に駄菓子だ)
オッサンになるとよく分かるけれど、思い出補正ってのはかなり強力だ。どんなゴミみたいな思い出も美化される。
ただでさえノスタルジーのドーピングがかかっている駄菓子屋の思い出である。「あのときのブタメンが人生で一番美味かった」とかいう妄言を吐いたとしても、許されるんじゃないだろうか。
私の中でブタメンのハードルはかなり上がっている。思い出バイアスがかなりかかっていることを自覚していた。
食べる前から「これは、いざ食べてガッカリするパターンっぽいな」と考えていた。昔好きだった子を卒アルで久しぶりに見たらガッカリするのと同じパターンである。同様に昔の自分を見て死にたくなるパターンでもある。
ではいざ実食。
…。
……。
…うめぇ。
染み渡るようにうめぇ。
なにこれ。完全に美味いんだけど。思い出補正とか関係なしに普通に美味いんだけど。コクがあるのにスッキリとしたスープとか永遠に飲み続けたいぐらいだし、アクセントになってるゴマとか最高にいい仕事をしてる。完璧じゃねーか。
十数年ぶりに食べたブタメンは、今でも美味だった。
私はそれがとても嬉しかった。
思い出の味
今住んでいる地域に駄菓子屋はない。
なので子どもたちにとっては最寄りのイオンが駄菓子屋である。彼らは私が体験したような駄菓子屋でのドキドキを味わうことはないだろう。家に帰ってから安心してブタメンを食べる。周りの目を意識することもない。
そんな子どもたちを見て思う。
ドキドキを味合わずに食べるブタメンは、子どもたちにとってそこまでの思い出にならないかもしれない。流れていく日々の取るに足らないワンシーンを終わりそうだ。きっとそれはそれでいいはずだ。
私と同じ思い出を作ってもらいたいなんて、さらさら思わない。彼らは彼らの思い出を作ればいい。
ブタメンは忘れてもらってかまわない。
でも私にとってブタメンは、いつまでも駄菓子屋でのあのドキドキを蘇らせる、思い出の味であり続ける。
そして、今こうやって子どもたちと一緒に食べたブタメンも、また未来の私の思い出の味であり続けるのだろう。
だからブタメンはずっと美味しい。
というか、普通に美味い。
以上。