俺だってヒーローになりてえよ

何が足りないかって、あれだよあれ。何が足りないか分かる能力。

この面白さを伝える言葉は存在しない。恒川光太郎『竜が最後に帰る場所』

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どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。

大好きな大好きな恒川光太郎の短編集をご紹介しよう。超面白いけど、超厄介な作品なので気合いを入れて臨むわ。たぶんまったく太刀打ちできないだろうけど

 

 

内容紹介

 

 

魔術のような、奇跡のような。
稀有な才能が描く、世界の彼方――
今、信じている全ては嘘っぱちなのかもしれない。

しんと静まった真夜中を旅する怪しい集団。降りしきる雪の中、その集団に加わったぼくは、過去と現在を取り換えることになった――(「夜行(やぎょう)の冬」)。
古く湿った漁村から大都市の片隅、古代の南の島へと予想外の展開を繰り広げながら飛翔する五つの物語。日常と幻想の境界を往還し続ける鬼才による最重要短編集。

 

Amazonの紹介文を転載しているのだが、この文章を書いている人もちょっと恒川光太郎にヤラれちゃってるっぽいな。こんなポエムみたいな文章を綴ってしまうとは。罪な男である、恒川光太郎。 

 

 

お手上げです

 

以前も書いたのだが、恒川光太郎の作品はめちゃめちゃ面白いのだが、ひとつ困ったことがある。

 

恒川光太郎作品の面白さを伝える言葉がこの世には存在しないのだ

 

どこの優秀編集者が考えたのか知らんが、「読者を“ここではないどこか”へ連れ去る鬼才」 という表現が今のところ一番相応しいと思う。

だがこれはあくまでも恒川光太郎自体を表現した言葉であって、作品の面白さを伝えてはいない。きっとプロの出版社の方々もまだ掴みきれていないのだろう。

もちろん私も例外ではない。恒川光太郎作品に魅了はされているが、その面白さを伝えようと思ったら…

 

「すごいです」

「超面白いです!」

 「こんなの見たことない!!」

「初体験!!!」

 

 というふうに、テレビ慣れしてないタレントのコメントみたいになる。つまり、何も語っていないのである。ただの文字情報である。あとは「!」を乱発するしかない。

これまで私は読書中毒ブロガーとして、本の紹介記事を腐るほど書いてきたが、そんな私でもどんな言葉を紡ごうか悩む。それが恒川光太郎作品なのである。

 

 

短編に不利なSFというジャンル

 

今回紹介する『竜が最後に帰る場所』は短編集である。正確にはSF短編集である。

短編集に必要とされるもの。それは「伝えるものを明確にすること」である。

 

小説とはつまるところ「作者から読者への情報伝達」でしかない。ページ数が限られれば、それだけ伝えられる量も限定される。であれば、短編であまり広範囲の話題を提供しても「風呂敷を広げただけ」とか「何も印象に残らない」とかになる。

また、一番最悪なのは「物語に入り込めない」だ。

短いからこそ作者にはその腕が試される。構成力が物を言う。短い時間で、どれだけ読者を巻き込めるか。そこに短編の良さが凝縮されている。

これがミステリーであればドラマなんか二の次三の次。とりあえず誰か殺しておけばOK。万事解決。ミステリーファンは納得する。あいつらはバカだからそれで平気だ。

恋愛ものであれば、もう定番の雛形「二人が出会う→仲良くなりそうになる→喧嘩する→やっぱりくっつく」が存在するので、あとは二人の職業とか立場とかのプロパティを入れ替えるだけで無限に作成できる。とりあえず喧嘩させておけば勝手にドラマになる。それか、どっちかが病気なるとか事故に遭わせておけばよい。二人共殺してみても面白いかもしれない。

 

その点でSFはかなり不利である

世界観を説明して読者に理解させる文量が必要になる。

あまりにも突飛な設定だと、読者が理解しなかったり、馴染めないまま物語が終わることになる。

さらにはSF設定を読者に馴染ませた上で、物語の核となる「ドラマ」を描かなければならない。短編という限られたページ数の中でこれらの仕事をこなさなければならないのだ。

 

 

圧倒的なまでの没入感

 

さてさて、そんな短編には不利なSFだが、恒川光太郎の腕前が恐ろしいまでに炸裂している。

『竜が最後に帰る場所』というもうすでにタイトルからして面白さが滲み出ているわけだが、中身もさらに凄い。名前負けしないタイプの作品である。

 

一番の魅力はなんと言ってもやはり”没入感”であろう。短いページ数にも関わらず、滑らかに異世界へと連れ去ってくれる。

使われている言葉のせいなのだろうか。本当に”滑らか”としか表現しようがないぐらいに、自然と作品世界に没頭させてくれる。脳内に物語世界のイメージが鮮やかに描かれる。文字を読んでいることを忘れてしまう。

 

でもそれだけ深く作品世界に潜り込まされるので、物語が終わった瞬間は、まるで水中から顔を出したかのような開放感がある。空気を存分に取り込んだあと、「あ、こっちの世界にいたんだ」と気付くのだ。

この開放感がまた最高である。

集中しているときの楽しさは、ある意味「忘我の境地」なので、そのときは楽しさを把握できない。

でも一旦集中から開放されると、今まで自分が夢中になっていたことを自覚するので、遅れて楽しさがやってくるのだ。

 

 

エンタメ三種の神器不使用

 

エンタメ作品と呼ばれるものには、よく使われる三種の神器がある。全部ではなくても、どれかの要素があるとエンタメとして機能しやすくなる。

それが「エロ」「恋愛」「暴力」である。

これがあるとエンタメ感が一気に高まり、大衆性が出る。広く楽しめる作品になりやすい。みんなが夢中になりやすい要素なのである。

 

だが『竜が最後に帰る場所』ではこれらが一切使われていない。無添加である。

これは凄い。まじで凄い。凄すぎてむしろ頭がオカシイ。意味がわからない。でもちゃと面白いし、夢中になっちゃうのだから本当に人外である。どこの異世界からやってきたんだよ、恒川光太郎。

 

 

余韻がたまらない

 

『竜が最後に帰る場所』に収録されている作品はどれもこれも心地よい没入感をもたらしてくれる。

なので「ずっと読んでいたい」と、「この物語がどうやって終わるのか知りたい」とが、せめぎ合うことになる。どちらも自分の偽らざる気持ちである。

そんな相反する感情に苦しむ読者に対して、恒川光太郎は100点満点の結末を用意してくれている。勘違いしてほしくないのだが、彼は伏線バリバリで鮮やかに回収するタイプの作家ではない。

自然に、しとやかに、そして味わい深いラストを用意してくれている。

これがまた心地よい。1つの話を読み終えるごとに余韻にヤラれるのだ。最後の一文を読み終えるごとに思わず布団に倒れ込みたくなる感じ。といって伝わるだろうか。余韻で満たされすぎて、思わず脱力したくなってしまうのだ。

自分の脳内に生み出された感情。それだけで満たされる時間。最高である

 

ということで、相変わらず作品の中身についてはほとんど書いていないレビューだが、少しでもこの作品に興味を持ってくれる人が増えることを願っている。

 

以上。

 

 

中身を忠実に再現してはいるけれど、この装丁はちょっと残念。 

 

 

 

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