否定して満足する人に困ってます。
決めてばかりの毎日
どうも、中間管理職ブロガーのひろたつです。
私は職場で部署を任されている人間なので、基本的に“決めること”が仕事である。上司から仕事を任されればどうやって進めるかを決める。部下に相談されれば、どうすればいいのかを決める。問題にぶち当たれば方針を決める。やり方を決める。とにかく決めまくりの毎日である。
スポンサーリンク
分かってくれない人は多い
こういった“決める”という行為の難しさや重荷を知っている人であれば、それがどれだけ覚悟が必要か、そしてどれだけ不確かな行為かを理解してもらえると思う。
だが世の中、自分を分かってくれる人ほど近くにはいないのものだ。好きな人は去り、嫌いな人だけが周りに残るのが世の中である。
否定されまくりです
で、私の職場を見てみたときに、私の決定や発案を否定されることが多い。私の判断がそれだけポンコツである可能性は無きにしもあらずだが、それにしても否定が多い。
否定というのは言い換えるならば「ツッコミ」である。みんなツッコミが大好きだ。そして得意だ。相手が考えた意見の間違いや不備を正しているつもりなのかもしれないが、はっきり言ってそんなの誰でもできる。
上手く行っていない職場ほど、こういう否定を繰り返す“評論家”が蔓延る。色んな職場を回ってきた私はそれを実体験を持って知っているのだが、今まさに自分の職場がそうなっているので愕然としている。死にたい。
否定なんて誰でもできる
否定というのは問題や対策を冷静に見ているからこそ出てくる言葉ではある。でも先程も書いた通り、そんなのは誰でもできる。人は足りない部分を見つけるのが得意だからだ。政治のことなんてこれっぽっちも分からない私でも首相を否定することは簡単にできる。トランプでもOKだ。
だからこそその一歩先がほしい。否定するならば対案を出して欲しい。すぐに出せないというのであれば、共感だけでも示してほしい。
アイデアというのはそれだけでは力を発揮しなかったとしても、誰かのアイデアを生む触媒となることがある。アイデアがアイデアを呼ぶのだ。それを分かっている人は、とりあえずでもいいから、硬直した状況に風穴を開けるために言葉を発する。それには勇気を伴うときもある。
被害が及ばないことが大好き
なのに否定するだけで満足してしまう人は多い。また、言うだけで自分は手を動かさない人も多い。どちらにしろそういう人たちは、自分には被害(責任)が及ばないことが最重要なのだ。
※参考記事
あまりにも否定が多いので一度本人に言ったことがある。「なら責任者変わってよ」と。リーダーとしては最低な発言だが、あまりにも我慢の限界だったので言わざるを得なかった。
それに対して相手の返事は「そこまでは求めていないので…」というひどく曖昧なものだった。否定はするけど責任は負わない。口は出すけど行動はしない。そういうスタンスらしい。素晴らしい。徹底している。
仕事って何?
仕事とは何だろうか。お金を貰うことだろうか。
いや、それは目的であり、本質ではない。もしお金を貰うことが仕事なのであれば、恐喝だって仕事になってしまう。それは違うだろう。
私は思う。少しでも何かを生み出す。それが仕事なのだ。生み出す手伝いでもいい。
何かを生み出したからこそ、その対価のひとつの形としてお金が貰えるだけなのだ。もちろん仕事によって得られるものはお金だけじゃない。
価値を生み出すためには色んな苦労がつきまとう。努力だけでは足りないときもあるだろう。自分との戦いもあれば、他人との戦いが必要なときもある。仕事の矢面に立つからこそ発生する苦労だ。
でもそんな経験をするからこそ、成長や喜びや、感謝、感動といったものを手にすることができる。逆に言えば、仕事の矢面に立たなければ何も得られない。手にするのは時給だけだろう。
否定をすることで仕事をした気になる人は多い。
でもそれを繰り返した先に得るものは何だろうか。
10年後の自分にどんな影響を与えるだろうか。
少なくとも私は否定する側ではなく、否定される側でいたいと思う。
以上。
そういうどうしようもない部下にこそ、こういう本を読んでもらいたいと思うのだが、そういう部下に限って読んでくれないのが現実である。