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小説のポップを書いている本屋さんに言いたい。帯でもいいけど。

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どこまでを本屋とするかは定義しない。とにかくポップと帯に関係している人間、みんなに言いたい。

 

 

ポップ。

 

私のような人間の場合、この言葉は軽い音楽を意味するものでも、ヘタレ魔法使いでもない。

これである。

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誰もが一度は目にしたことがあるだろう。

これは、面白い小説に出会いたい、と本屋という迷宮でさまよう者たちを導く灯火であり、映画で言うところの予告編。ポップによって私たち読書中毒者は、激しく飢餓感を煽られ、貪るように本をレジへと運んでしまう。

実際、ポップを書いている人というのは、本を愛してやまない人なのだろう。それはポップの紙面上に溢れた熱量に触れれば、一目瞭然である。

 

しかし、だ。

最近あまり芳しくない状況を目にする。

本を愛するがゆえの暴走なのか、それとも金儲けのための故意によるものなのか。判断はつかない。

でも小説好きからすると、非常に不愉快な現象が横行しているのだ。

 

それはポップや帯における、

 

「ネタバレ」と「嘘」

 

である。

 

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衝撃の結末が溢れかえっている

「衝撃の結末!!」

 

これは少し前まではごくごく限られた作品にしか使われなかった謳い文句であった。

それが今では衝撃の結末と書かれていない作品の方が少ないぐらい、衝撃の結末が溢れかえりインフレしている。いや、デフレか?まあどちらでもいいが、とにかく現状を見る限り「衝撃の結末」という謳い文句にはほとんど価値が無くなってしまった。

「衝撃の結末」というのは、物語の中でもかなり効果的な手法で、これによって得られる快感は確かに大きい。だからこそ読者は、「もっとどんでん返しを!」と中毒症状を起こす。

それに対して、本物の「衝撃の結末」を有した作品というのは限られてくる。むしろ限られているからこそ「衝撃の結末」を名乗れる訳で、抜きん出ることができない凡庸な作品に使われる言葉ではない。

なのに、今ではそこら中で「衝撃の結末」が濫用されている。

では傑作ぞろいなのかと言えば、そうではない。まったくない。全然ない。無駄金にもほどがある。ファックだ。

 

衝撃の結末中毒

じゃあなぜこんなにも濫用されているか。

それは「衝撃の結末」と書いておけば、“衝撃の結末中毒患者”がホイホイと買っていくからだろう。

彼らは「あの快感をもう一度!」と脳みそがガバガバになっている。完全に中毒症状だ。「衝撃の結末」が欲しくて欲しくて仕方なくなっているおバカさんたちだ。

そこにそんな美味しそうなものがぶら下がっていたら、飛びついて当然である。財布の紐も緩くなるってもんだ。

この状況は、ドラッグを巷にばら撒く売人とドラッグの中毒患者の関係とまったく同じだ。そう、本屋と私の関係ことだ。ふざけんな。

 

そもそも「衝撃の結末」と書かないと本が売れないから、売り手側はそういった手段を取っている訳で、そう考えると本当に「衝撃の結末」の中毒になっているのは、売り手側なのかもしれない…。と思えば、少しは情状酌量の余地が

 

あるわけねえだろ。

 

ドラッグだと期待して吸い込んだら、実は小麦粉でした。売人に文句を言ったら「いや最近締め付けが厳しくて…。でも売るものがないとこっちも生活があるんで…」とか言われても納得しねえよ。こちとら禁断症状でブスにまで手を出しちまってるんだから(手当たり次第に「衝撃の結末」作品を買い漁る状態のこと)。

 

ただ、こんな状況になってしまったのも、過去の偉大な作品たちがいけないのだ。

あの作品たちが読者に強烈な快感をもたらしてしまったから、売れまくってしまったから、そこに「衝撃の結末の需要と供給」というマーケットが生まれてしまったのだ。

そして、安易にセカンドペンギンを狙う輩が出てきてしまった。

 

偉大なものの周りにくだらないものが集まるのは、どの世界でも一緒である。

 

そもそも「ネタバレ」だから

私はこのブログで繰り返し主張しているが、そもそも「衝撃の結末」というのはネタバレである。「最後の◯ページで世界がひっくり返る」とかもそう。「ラスト何行」とかもそう。

不意を突かれてこその「衝撃の結末」だ。驚くからこそ衝撃となり得る。

なのに前もって言っちゃう。「これから驚かせますよ」って。台無しだろ、それ。手品じゃねーんだから。

 

事前に言ってしまうことでどれだけの読者から快感を奪ってしまったことか。他の人は知らんが、私は相当な回数奪われている。貴重な貴重な、私の「衝撃の結末」を…。一度失えば二度と手にすることはできないのに。

 

それとも実はみんなネタバレしてもらった方が嬉しいのだろうか。話のオチを知ってからの方が安心して読めたりするのだろうか。すべらない話とかも、オチを最初に言って欲しいのかな。

 

上司に報告するときは「まず結論から」と世の社会人は言われている。

その影響が小説にも出ているのか。そうとでも考えないと、納得できない。いや、そう考えても納得できない。

 

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過剰演出競争

ポップや帯による効果というのは、「目立たせること」と「期待さえること」に他ならない。

そして売り手はその効果のためだったらどんな演出もする。

 

少し前だったら(今もそうか?)それは芸能人を起用するとか、その程度のものだった。HYの仲宗根泉が「泣きながら読みました」とか書いて、その役割を果たしていた。私のような悪質な小説マニアからすれば逆効果だったが、新規の客を取り込んだり、目立たせる意味では効果が期待できただろう。

 

でもみんなが同じことをすれば、目立たなくなる。芸能人が帯を書くのが当たり前の光景になる。こうなると道路標識と同じだ。ただそこにあるだけになってしまう。

 

そうなると過剰演出競争が始まる。「衝撃の結末」という言葉を濫用せざるを得なくなる。そうしないと差別化ができないからだ。

 

しかし、もう一度考えてみてほしい。

過剰演出は行き過ぎればただの嘘だ。現状を見る限り、私はポップや帯に嘘が書いてあるように感じている。

 

差別化をするために嘘をついてもいいのか。

 

体験を売ります

物を売るためには体験を売れ、というのはよく言われる言葉だ。

その商品を買ったことで「どんな体験をできるのか?」を伝えると、客の購買意欲を煽りやすい。

その手法は、もちろんポップや帯でも使われている。

さきほど書いたHYの仲宗根泉に代表されるような「泣きました」的な文言だ。

 

ここでも結局、過剰演出争いが勃発している。

 

「泣きました」

「号泣しました」

「嗚咽が止まりませんでした」

「一万人が涙した(売れた部数=泣いた人数としてカウント)」

 

というポケモンの進化みたいな現象が起きている。

みんな涙腺緩すぎろ。感情の振れ幅狭すぎだろ。そんなポテンシャルでよく生きていけるな。私が知らんだけで、みんなこっそり泣いてんのか。いっつも涙してんのか。それが普通のなのか。

いや、それとももしかして、私も気付いていないだけで泣いている、の…か…?

 

…。

 

…。

 

うん、カッサカサだね。

 

 

 

誰がどんな体験をし、それを公言しようが自由だ。だけどそれによってどれだけの人が振り回されているのだろうか。そして、どれだけの「本当に泣ける小説」が凡作の中に埋もれてしまっているのだろうか。

過剰演出という煙幕によって、本当に面白いものを見つけることが逆に困難になってしまっているのだ。

 

殺し合いの螺旋

この不毛な「ポップ争い」は今のところ終わりが見えない。ネタバレと過剰演出という名の嘘を繰り返すしか生き残る方法が無さそうである。殺し合いを続けるしか生き残る方法がないとみんな思っているようだ。

 

上の方でも書いたが、出版業界だって生活がかかっている。売らなければ生きていくことができない。それゆえに、多少の汚い手は致し方ないと思って使っているのかもしれない。

 

殺し合いの螺旋は何を生むだろうか。生き残ることはそんなに大事だろうか。

いち読者でしかない私は、その争いに巻き込まれる被害者でいるしかない。せめてできることといえば、ネットという大海の片隅で、こうやってつぶやくことだけだ。

 

売り手の皆さんはこの状況をどう思っているのだろうか。

それとも生き残りに必死で、状況を冷静に見つめる余裕もないのだろうか。

 

 

長らく本好きとして生きてきた私には、ひとつだけたしかなことがある。

 

それは、本当に価値ある本はいつまでも残る、ということだ。

ポップは機会を作るかもしれないが、名作を作ることはできない。

 

売り手の皆様にはそのことを肝に銘じていただきたい。

 

以上。