どうも。
最近気付いたことの話。
誰もが反応に時間を費やす
最近気付いたことがある。
それは世の中には腐るほどコンテンツが溢れているということ。
そしてほとんどの人が、それに反応するだけに終止していること。
別にそれが何?という話だろうか?私にはそうは思えない。反応するだけに終始していて大丈夫なのかと思う。恐怖感さえ覚える。
だって、きっとみんなそんな意識はないだろう。
何かを見て、「やべえ」「神」「つまんない」「クソ」とつぶやく。
ギャンブルに身を投じる。
ゲームに膨大な時間を注ぐ。
まとめサイトを日がな一日眺める。
当の本人は楽しんでいるだけかもしれない。別に構わないと言えば構わない。他人の幸せを否定するほど高尚な人間ではない。むしろ低俗である。
だがそんな低俗な私から見ても、明らかにみんな「反応」に終始しすぎである。
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生み出す側は疲れる
反応というのは非常にラクである。赤ちゃんでもできる。
だが逆に「生み出す」のは非常に疲れる。脳が疲れる。しかも答えがないときてる。
私もこうやって日々、ブログに文章を「生み出している」人間である。そんな偉そうなものを生み出しているとは到底言えないレベルだろうが、だがこうして私なりの限界を常に生み出し続けている。誰かの価値になるものを作り出そうと考え続けている。
仕事でもそうである。100人を超える部署を運営するために、日々の業務を効率よくこなすために、未知の問題を解決するために、常に何かしらを生み出し続けている。
正直、消耗しているとは思う。
だが確実に言えることがある。
私はそのおかげで成長していると。
人生を受け身になっている
部下を見ていても思う。完全に「反応するだけ」になっている。
これは別に「最近の若者は…」的な話ではない。明らかに「反応するだけ」で終わる部下と、「生み出そうとしている」部下に分かれているのだ。
「反応するだけ」の部下は簡単に言うと、すべてにおいて受け身なのだ。
仕事を頼んだとしても、何か問題が起きたとしても、過酷な状況になったとしても、逆に平和にだったとしても、とにかく受け身なのだ。そしてそれらにいちいち反応を示さずにはいられない。「なにこれ?意味わかんない」「最悪」「今日は最高」
そういった部下に出会うと私はどうやって言葉をかけていいのかよく分からなくなる。
「そんなんじゃダメだよ」「もっと主体的に生きなよ」なんて言葉を理解してくれる主体性を彼らには期待できない。きっと私はダメな上司なのだろう。そしてそんな上司の元に配属された彼らは不幸だとも言える。
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重さを知っているかどうか
仕事で生み出す側になる人は、役職があろうがなかろうが、必ず周囲から「寄りかかられる存在」になる。そうやって職場のネットワークが構築されていく。これは間違いない。
人はどうしても頼りになるものを見つけたくなるようにできている。不安定な状況ではいられないのだ。
だから「反応するだけ」の人は、「反応させてくれる人」を見つけようとする。
逆に「生み出そうとする」人は、自分の中に確かだと言えるものを作り出そうとする。そして試行錯誤の中でそれをより強固にしていく。これを成長を呼ぶのかもしれない。
100人を超える部下に囲まれ、日々、何かしら彼らに疑問を投げつけられる生活を送っている。いい表現をするならば私も「寄りかかられる存在」なのだろう。
ときにそれは重圧にもなる。その重みから逃げ出したくなるときもある。
だが、その苦しみが今の私を作ってきただろうし、これからの私を作っていくことだろう。
苦しみはときに人を壊すこともある。
だが苦しみがないと人は成長できないとも思うのだ。
そして成長の先には喜びがあることは皆さんご存知のことかと思う。
以上。
憂鬱でなければ、仕事じゃない (講談社+α文庫) | ||||
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