これは羽海野チカ氏への壮大な(はた迷惑な)ラブレターである。
『3月のライオン』。
2011年のマンガ大賞を受賞し、アニメ化はもちろん、実写映画化までされた誰もが知る超人気漫画だし、その面白さは誰しもが認めることだろう。私も『3月のライオン』にはやられた。正直メロメロである。30過ぎのおっさんがメロメロになるとどうなるかご存知だろうか。作品の可愛さをおっさんが摂取し、消化すると、可愛い成分が腐敗して、周囲に「気持ち悪い」空気を撒き散らすようになる。そのさまはあまりにも醜悪だが、許してやってほしい。別におっさんだって好きで気持ち悪くなっているわけではないのだ。『美女と野獣』の野獣だって好き好んで醜い姿をしているわけではないのだ。誰かこの呪いを解いてくれ。
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超人気漫画を恐れ多くもご紹介
さて、冒頭から好き放題書かせてもらったが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。ポンコツブロガーのひろたつです。
今回私が恐れ多くも紹介させてもらうのは、超人気漫画の『3月のライオン』である。
いまさら私なんぞが紹介せずとも日本国民のほとんどの方がご存知な名作。はっきり言って、私のような小者が紹介なんかしたら逆にケチが付く。著者の羽海野チカ氏からすれば余計なお世話というか、お節介というか、邪魔?不快?不愉快?殺意?まあとにかく悪感情のどれかには当てはまると思うが、ここはいちブロガーとして、恥を忍んでこの不朽の名作を賛美する記事をしたためさせていただこう。日本には言論の自由があるのだから、ここは大いに自由を謳歌したいと思う。
ちなみに自由と責任は常に一緒に付いて回るそうなのだが、みんなは知っているだろうか?私は知らない。
“ほんわか”の暴力
まず『3月のライオン』を形容する上で避けられないのが“ほんわか”である。
紙面から恐ろしいほどの“ほんわか”が溢れている。我が住まいであるアパートはくそ狭いので、『3月のライオン』を読み始めて数分で部屋中が作品から溢れ出た“ほんわか”で埋め尽くされてしまった。幼い子供たちがどこに行ったのか、いまだに分からないぐらいである。
例えばこれだ。
将棋漫画だというのに、このほんわか度合いはなんなのだろう。
将棋とは殺し合いのゲームだ。それをここまでほんわかなものに昇華させるとは、羽海野チカ恐るべし。それにしてもこの描き込みよう…、変態としか言いようがないだろう。駒がちゃんとそれぞれ描き分けてある。
私は羽海野チカ氏の前作である『ハチミツとクローバー』を読んでいないので、彼女の特徴を知らないのだが、『3月のライオン』に関して言えば、とにかく全編を通して「ほんわか」と「可愛さ」で埋め尽くされている。それはもう、作中に出てくる男も女も老いも若きも獣も関係なし。無差別にすべてがほんわかと可愛さで装飾されている。ここまで来ると「ほんわかキチ◯イ」と誰もが言わずにはいられないだろう。私はそんな下品なことは口が裂けても言わないがな。大体、そんなこと思ったこともないし。
個人的にお気に入りは三姉妹の末っ子「もも」。別にロリコンではない。うちの子と同い年なので堪らないだけである。
終始作品がほんわかしている『3月のライオン』だが、このほんわかさは毎日死んだ目をしながら仕事をしているような私からすると、癒やされすぎて逆に死にたくなる。作品の美しさが、余計に汚れきった自分の心をあぶり出してくるので死にたくなる。とにかく死にたくなる。これはもう暴力である。ほんわかの暴力である。どれだけフッカフカの高級羽毛布団でも、顔に押し付ければ窒息死するというものである。そんな感じ。
血の通いっぷり
名作の条件として「キャラクターに血が通っていること」は、よく言われる。必要条件ではないものの、十分条件とは言えるだろう。キャラクターに上質な血が通っていると、読者は簡単に物語世界に没入し、感情を共にするようになる。つまりキャラクターさえしっかりしていれば面白い物語になる、と言えるだろう。
ご多分に漏れず、『3月のライオン』も凄い。血が通っている。通いまくっている。熱い血潮である。血潮が一体何なのか、あめんぼのあの曲でしか聞いたことがない言葉だがあえて使わせてもらおう。『3月のライオン』のキャラクターは血潮を噴出している。それくらい人間的な存在である。
誰もが非常に人間的なのだが、やはり一番は主人公である桐山零だろう。
彼は作品の最初、極端な人間づきあい下手として描かれている。それが『3月のライオン』の主なドラマ要素であり、彼自身の将棋の強さの理由にもなっている(将棋盤の上にしか存在意義を見つけられなかった)。
つまり物語の上で非常にいろんな意味で都合の良い性格なのだが、これがまた面白いことにちゃんと成長するのだ。あまりネタバレはしないが、主人公桐山の成長、これが『3月のライオン』の最大の見所だと思う。
彼の秀逸さは、いわゆる漫画的な成長の仕方をしないところである。
何か劇的な体験をして、人が変わったように成長したりしないのだ。
同じような失敗を重ねながら、少しずつ少しずつ、変わっていく。そこに都合の良いワープは存在しない。毎度彼なりに苦しみ、もがき、無様に成長していく。そのさまがあまりにも人間らしい!好きだぞ桐山!一応書いておくが、私は別にショタコンではない。
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演出が凝りすぎ
作者の羽海野チカは上にも書いた通り、変態である。『3月のライオン』を描くために自分の中にあるものすべてを捧げいている節がある。
その変態っぷりは演出にこそ表れていると私は思う。ストーリーも十分に熱い(三浦建太郎が「ヤングアニマルで一番男らしい漫画」と語るのも理解できる)のだが、それよりも演出である。
例えばだ。
このシーン。
桐山が涙を流すシーンなのだが、泣き顔を見せるわけでもない。だけど目頭を押さえ、メガネを外している。明らかに泣いているのだが、それでもあえて「見せない」ことを選択している。このシーンは涙を流しているだけあって、結構重要なシーンなのだが、感情を爆発させている所を見せるのではなく、押さえているのを見せているわけだ。奥ゆかしいとも言えるだろうし、小憎らしいとも言える。ド正面からはぶつけてこないのだ。
それでも、いくつかの溢れる涙、それと桐山の周りに漂うオーブ的な物体が彼が見せてくれない涙を補強してくれている。そしてそれが温かい涙であることが伝わってくる。
これはほんの一例だが、作中の描写ひとつひとつが本当に凝っている。すべてに意味を持たせているように感じる。
他にも、受験勉強中にお姉さんが夜食をいきなり持ってくるシーンがあるのだが、そのときの効果音が、
「ぱぱーん」
なのだ。
いいか、分かるか?「ぱぱーん」だぞ?「ババ~ン!」じゃないんだ。この絶妙さが分かってもらえるだろうか。
ババ~ンでも十分可愛いのだが、「ぱぱーん」にすることによってさらに可愛さが増幅されているのだ。さきほど書いた可愛さの暴力である。可愛さのマウントポジションである。ボコボコにされるしかないのだ。
それにしても「ぱぱーん」はなぜこんなにも可愛いと感じるのだろうか。
考えてみれば、「ぱ」と言えば「おっぱい」の「ぱ」である。私たち人類がこの世に生まれ落ちて最初に口にするもの。人類の命の根源を成すものだ。そう考えると「ぱ」は人類の本能に訴える効果的な言葉だ。
さすが羽海野チカである。まさか人類共通の言葉を選び出してくるとは…。(絶対に違います)
作中に出てくる料理もひとつひとつがちゃんと美味しいものだったりするし、吹き出しの外に書いてあるコメントもいちいち面白いし、重要なシーンではセリフと心理描写を同時に記すことで、シーンに厚みを増したりとか、とにかく凝っている。
事実に忠実
こうやって書き出してみるとよく分かるのだが、『3月のライオン』は褒める所がいくらでもある。書こうと思えば何万文字でも書けそうだ。
ただまあ、やはり漫画である。私の駄文を読むよりも作品自体を楽しんでもらうほうが、遥かに魅力を確認できると思う。
ただ少しだけ『3月のライオン』でアシストできるとするならば、私はいくらか将棋に精通しているところがある。いや、全然やったこともないし、強くもなんともないのだが、本好きが高じて将棋棋士の本をかなり読み漁っているのだ。なので彼らの生態や思考などには普通の人よりはかなり詳しいはずだ。あれだけ読んでいるのに詳しくなかったとしたら、私は一体何を読んでいたのだろうか。紙に染み付いたインクの形状をただただ確認していたことになってしまう。
そんなことはさておき、『3月のライオン』に登場する棋士は大概がモデルが存在する。単行本の中のコラムでも触れられていたが、一番分かりやすいのは二階堂だと思う。
彼のモデルになっているのは、映画化されたことでも有名な村山聖九段。
天才と称されながらも29歳の若さで急逝した名棋士である。
もしご興味がある方は映画か彼の人生を描いた小説を見てもらいたい。くそほど泣けるのでおすすめだ。
また棋士の勝負に対する姿勢や、考え方などは、棋士の本で書かれていることそのままが使われていたり、名棋士の人生や苦悩をそのまま描いてくれている。きっと将棋好きの人たちは狂喜乱舞しているんじゃないだろうか。
全力仕事は心を動かす
『3月のライオン』を読んでいると、作者の羽海野チカ氏が本当に将棋を愛していること、そして何よりも漫画に命を賭けていることがよく伝わってくる。
ひとつのことに全てを賭けているのは棋士も羽海野チカ氏も同じである。どちらも素晴らしいプロの姿と言えよう。だからこそ私たちは彼女たちが生み出す物語に魅了されてしまうのだろう。何かに全力で立ち向かう姿に人は、自然と心動かされるものだ。
今の時点で『3月のライオン』は12巻まで刊行されているが、物語はまだまだ終わる気配がない。これだけの質と熱量を保ちながら完結するのは、ほとほと気の遠くなる話ではあるが、ぜひとも羽海野チカ氏には血潮をまき散らしながら駆け抜けてもらいたいと、受け入れるだけの自分勝手な読者は思うのであった。
以上。