どうも。
大仰なタイトルだが、簡単に言えば「バカはバカ同士で集まり、他人をバカにするのが好き」というだけである。哲学的な何かを期待した方は申し訳ない。
誰もがバカ
『バカの壁 』を読むまでもなく、人は自分の頭の中にあるものでしか判断できないことは分かりきったことである。だからこそ、視点の欠如や思慮不足によって“足りない”見方が発生する。
一方的な正義感や私刑なんてのはそういう頭の悪さから滲み出てくるものだ。これは別に偉そうなことを言いたいわけではなく、誰しもにそういった「愚かさ」みたいなものがあるということである。自分自身への戒めも込めてある。きっと誰が「バカな自分」を抱えているのだ。
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バカは気付かない
鶏が先か卵が先か、という話に似ているが、「バカ」は「気付き」と非常に密接な関係がある。「バカ」だから気付かないのか、気付かないから「バカ」なのかという問題だ。誰も問題にしてないかもしれないが。
自分自身を振り返ってみるとよく分かるが、「バカな状態」になっているときは大抵頭がヒートアップしていたり、快楽に傾いているときだ。
具体的に言うと嫌いな奴の相手をしていて「こいつはどうせ大した意見を言わない」と決めつけていたり、過去の成功体験に似たシチュエーションに出会った時に「これはあのやり方で解決できる!みんなに自分の凄さを見せつけるチャンスだ!」と張り切っているときである。
こういった時、私の視野は非常に狭くなっている。実際には他人の表情も見えているし、空気も感じているのだが、その時点では何も理解できていないのだ。すべては事が終わって落ち着いてから脳みそに染み込んでくる。そして後悔や反省の繰り返しである。これをバカと言わずに何と言おうか。
意識した途端にバカではなくなる
私たちの中にあるバカはこっそりと潜んでいる。見つけられないような姿をしている。だから厄介なのだ。目に見えていたらすぐさま駆逐するのに。
だからこそ誰もが己の愚かさに気付かないし、自分だけは賢いという幻想を抱いてしまう。
もしかしたら人生というのは、己の中にあるバカを駆逐することが目的なのかもしれない。
「これが正解だ」と決めつけた途端に我々の脳みそは考えることを止め、「不正解」を探し出すだけの老害に成り果てる。これは別に年老いてからでなくても起きる現象である。っていうかネットを見るとそんなんばっかだ。
バカは集まる
これはあくまでも私が周囲を観察した範囲の話でしかない。
文句や不平不満、誰かの悪口を一人で言っている人というのは見かけない。いつも輪を作って罵詈雑言を生産している。私が小学生のときに教師が「輪を大事にしなさい」とか言っていたが、きっと違う輪なのだろう。
自分と同じ意見の人を周りに集め、自分の「間違ってなさ」みたいなものを確認しているのかもしれない。それはひどくみっともなく見えるのだが、やはりここでも「バカ」という本人には気付けない力が発揮されている。きっと本人たちは楽しい時間を過ごしているのだろう。
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誰かを格付けしたがる
さらに似たような現象に「他人を貶めたがる」という傾向もある。
バカな人ほど、他人を「バカ」だと格付けしたがるのだ。
これは「他人の欠点はすぐに目につくが、長所は見えにくい」というレベルの話ではなく、そもそも「他人を認めたくない。認めないことで相対的に自分の格が上がる」という効果を狙っている。非常に浅ましいと言える。
そうやって勝手に「私は凄いんだ」と悦に入ったりしている姿は、子供がやる「ごっこ」っぽくて微笑ましいとも言えるかもしれない。言えるだけで私はそう感じないが。
きっとバカな人の目を通すと、世の中バカな人だらけだったりするのだろう。
全部自分に返ってきます
と書き殴ってはみたものの、全ての言葉が自分に返ってくるのでなかなか辛い。面白おかしく文章を紡ごうとしていたのだが、難易度があまりにも高すぎた。
この記事が何よりも私がバカである証拠になるだろう。
結局は私もバカの壁の中で藻掻いているということだ。
以上。
バカの壁 (新潮新書) | ||||
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