どうも。
職場の話である。
上司、30年勤めた会社を退職する
私の上司がこのたび、退職することになった。一身上の都合ということなのだが、実に30年も同じ会社に勤めていたのだ。ただごとではないのだろう。
上司が辞めることが職場に知らされたとき、周囲からこんな声が上がった。
「よっしゃあっ!」
何もそこまであからさまに喜ばんでも、と少々引きながらも、その気持ちは分かるな、と私は思っていた。
その上司の口癖が「人を大事に」だった。
彼と仕事をして5年ぐらいになるが、もう100回はそのセリフを聞いた気がする。この「人を大事に」というのは、部下を大事にする、という意味である。
しかしそんな「人を大事に」してきた上司がなぜこんなにも、辞めることを喜ばれるぐらいみんなから嫌われてしまったのか、私は素直に不思議に思った。
何か大事なことを常々口にすることは、己に習慣づけるために有効なことである。
しかし、その上司はそうならなかった。少なくとも、私たちには上司が「人を大事に」しているようには感じていなかったのだった。
なぜこんなことに彼はなってしまったのだろうか?
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自分にはない要素を求める
大前提として、そもそも初めから人を大事にできる人は、「人を大事に」なんてことは言わない。意識しない。それは私たちが「右足と左足を交互に動かすと歩けるよね」と言わないのと同じである。それが当たり前のことだからだ。
つまり上司は、「人を大事にできない」人であったのだろうと思われる。
人は常に自分にはない要素を求める。中国で儒教が広まったのも、国民に儒教の考え方が備わっていないからだと何かで読んだことがある。きっとアメリカ人が「愛」とことあるごとに語るのも、「愛」が備わっていないか希薄だからなのだろう。
自分に足りないところに気付けるのは、素晴らしいことだと思う。気付くことは成長の第一歩である。
偉くなってはいけない
しかしそこで落とし穴がある。
自分は気付けた。そして日々、自分に「人が大事だ」と言い聞かせている。なんなら部下にだって口を酸っぱくして言っているぐらいだ。
そう思っている内に次第に、「自分は大丈夫だ」という認識が生まれる。これは心にできたシミのようなもので、自分ではそれがシミになっていることには気付かないぐらいゆっくりと形作ってしまう。
野村克也氏はかつて「自分は特別な人間だという自信と、自分は普通の人間だという謙虚さ。この二つを同時に持っていたい」と語っていた。
自分を客観視することは難しい。しかしだからこそやらないと、自分が思っているのとは真逆の方向へと進んでしまうのだ。しかもそれは取り返しがつかないほどだったりする。
自信は大事だ。それがなければ人の上に立つことは苦行でしかない。「自分にはその資格があるんだ」という強い気持ちが己を奮い立たせる。しかし、それと同時に、「これでいいのか?」「自分は間違っていないか?」と疑問を持つことを止めてはいけないのだろう。
自己暗示はほどほどに
「俺は大丈夫」という自己暗示は、ここぞという所で力を発揮するのには持って来いだ。だが、その力を乱用すると己を狂わすことにもなりかねないことを、嫌われ者の上司は体を張って教えてくれた。ありがたい話である。
私もその上司のことは嫌いだったが、それでもこうやっていざ別れることが決まると、少々寂しくなってしまうのは不思議なものである。
ちょっとしたおしゃべりで笑いあったことや、仕事で問題が発生して何とか山場を乗り越えたときに一緒にホッとしたこととか、何だかそういう都合のいい思い出ばかりが蘇ってきてしまう。
人は何かを失うのが苦手である。
しかしそれは嫌なことに関して言えば、まったくない。嫌なことを失うのは大歓迎なのだ。だからか、上司がいなくなることで私の脳裏にはたくさんの「いい思い出」ばかりが浮かんでくるのは。もしかしたらこれを悲しいと呼ぶのかもしれない。
私も知らず知らずの内に「あの人を私は嫌いだ」と自己暗示をかけていたのかもしれない。
大人になるにつれて、人と別れるのがヘタになっている気がする。
それがいいことなのか、悪いことなのかは私には分からない。
以上。