どうも。
こうやってせっせこブログ記事を毎日毎日書いている。この時間をバイトに充てていたら今頃億万長者にでもなっていたことだろう。それくらい時間を費やしてる。…のにも関わらず読者というのは勝手なものだ。世のブロガー達が記事を読みやすくするために重要箇所を太字にしているのをいいことに、太字しか読まないやつがいる。
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しかし現代人は多忙である。しかもブログサービスなんてのは世に溢れている。「なぜそんな勝手なことができるんだ。神経を疑うぞ」といくらブロガーが叫ぼうが、読者には関係のない話である。情報をいちいち吟味していたらあっという間に人生が終わってしまう。せっかくブロガーがご丁寧に重要箇所を太字にしてくれているのだから、拾い読みしたくなるのも当然と言えよう。
読み手に書き手の努力を想像する必要はない。書き手がどれだけ苦労しようが、消費する側はそこに提供されるものがある以上、好きにする権利がある。むしろ「提供されるサービスを当たり前と思ったら大間違いだ。ちゃんと吟味しろ」と喧伝している書き手の方が何か勘違いしていると思う。
確かに世の溢れる作品だけに限らず、サービスなど全てのことの裏側には、それを支える人がいて、そこには途方もない努力があったりする。でもそれはあくまでも役割であって、誰からも強要されたものであはないはずだ。「裏方の努力に思いを馳せろ」なんんて言ってしまう人は、その被害者意識を何とかすることが先決である。
この話を知っているだろうか。
レンガを積んでいる三人に質問をしました。
「あなたは何故そのレンガを積んでいるのですか?」
一人目の人は答えました。
「レンガを積めと言われたので積んでいる」二人目は、
「金を稼ぐためにレンガを積んでいる」三人目は、
「大きな正殿を建てるために今ここでレンガを積んでいる」
と答えました。
この「正殿を建てる」というような目的やビジョンが無いから、読み手に対して「もっと賞賛しろ」という場違いな思いが湧いてきてしまうのだ。敵は適当に読んでしまう読み手ではない。自分の心の在りようである。
それでも「拾い読みなんて言語道断である」と言ってしまう人に私がかけられる言葉はあまりない。ただ、人を憎むということは餓鬼畜生の所業である、ということだけだ。人を呪わば穴二つとはよく言ったもので、他人に対して「もっと触れるものひとつひとつを大事にしやがれ」と思ってしまう人は、きっとその足で花を踏み潰してしまっていたりするのだ。
そんなに太字しか読まれないが嫌だったら、いっそのこと全部太字にしてみてはどうだろうか?
「きっと太字しか読まないやつなんてのは、人間関係でもそうなのだ。好きな人の好きな所しか見たくない甘えた野郎なのだ。そうやって生きていればいいさ。いつかそうやって影の努力を踏みにじってきたことを後悔する日が来るだろうから」
こんな感じだ。どうだろう、これで気分が晴れるだろうか?
何でも同じようなことを書くが、太字しか読まれないのは全てあなたの責任である。読まれる文章を書けないことが原因なのだ。あなたが、「どうしても読みたくなってしまう文章」を書くことさえできれば、太字問題に悩まされることはもうない。
他人に対してやいのやいの言ったり悶々としている時間があったら、自ら研鑽を積むことにエネルギーを注ぐべきである。
以上。
※ちなみにこの記事は太字の部分だけを読むと、逆の内容になるように書いてあります。