どうも。
常に平等でありたい人がいる。
誰がという話ではなく、よくそこら辺にいる。私の周りにもたくさんいる。おばさんにそのタイプが多いような気がするのは、きっと私の偏見であろう。
この「常に平等でありたい人」が最近、私の中でかなり目立っていている。以前はそれほど気になっていなかったのだが、観察すればするほど「こいつらかっけえな」と思うようになり、たまらずこうしてキーボードを叩いている。
今回は、この「平等病」に罹患した方の話をしよう。
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感度ビンビン
平等病の患者は感度がすごい。アンテナが半端ではない。
自分の不幸に、である。
何かにつけて、自分がどれだけ恵まれていないかを嘆き、自分の不幸を嘆く。
とにかく自分の不幸に敏感で、さらに詳しい。その情報感度具合は堀江氏を容易に凌ぐ勢いだ。これはかっこいい。
すぐに取り返そうとする
平等病の患者はすぐに取り返そうとする。
自分の不幸を、である。
何かにつけて、自分に足りていないものを何かで穴埋めしようとする。しかもその取り返し方が、「他人を自分と同じ位置に貶める」という必殺仕事人もびっくりな人の道を外れたやり方なのである。
「私はこんなに不幸。だからあなたも不幸になって」
こうなると、自分が不幸であることがイヤなのか、それとも他人が幸福であることがイヤなのかよく分からなくなる。もし他人の幸福がイヤなのであれば、その心は悪魔とそう大差ないだろう。悪魔に一番近いのは人間だと書いてあったのは確か寄生獣だっただろうか?どうやらフィクションの話に現実が追いついてきているようだ。これはかっこいい。
文庫版 寄生獣(1) (講談社文庫) | ||||
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平等病の原因
平等病の原因はたぶん、「我慢」の暴飲暴食だと思う。
みんな我慢を摂取しすぎているから、「あなたも我慢しなさい」と平気で他人を不幸にすることができてしまうのだろう。
また我慢をすることがかっこいいと勘違いしているから、他人にを不幸にすることでむしろ満足したりするのだろう。
我慢がいけないと言っているのではなく、摂り過ぎがダメだと言っているのだ。公共の場でウンコを漏らしてはいけないし、美女を見たからと体を触ってはいけないのだ。そこは我慢だ。
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理想
クソほどの役にも立たない記事になりそうで怖いのだが、一応まとめておく。
私たちは当たり前のように平等ではなく、常に誰かの不幸と幸福は隣り合わせになっていたりする。誰かの願いが叶うころには、誰かの願いが叶わなかったりする。
どうせ平等でないのであれば、私たちはそんな当然のことはいちいち気にするべきではないのだ。誰だって手が3本ないことに不満は言わないだろう。当たり前のことだからだ。
自分に足りないものは気にせず、時には笑い飛ばしたりして、他人の足りているものは素直に祝福すればいいのだ。なんとも安易な結論だとは分かっているが。
自分の脳みそに染み付いた考え方や感じ方のクセはなかなか変えられないかもしれないが、あなたは自分の心にブレーキをかけることはできる。
「今、誰かの不幸を願っていた」
「自分のことを可哀想だと思っていた」
そう気付くことぐらいはできるはずだ。気付くことができれば、そこで立ち止まることができる。立ち止まることができれば、行き先を変えることができる。行き先を変えることができれば、あなたは違う未来に行ける。
以上、健闘を祈る。