東野圭吾は日本のスティーブン・キングである。
どうも。読書ブロガーのひろたつです。他人を蹴落とした記憶はありません。
さて、今回紹介するのはわが日本が誇る稀代のベストセラー作家東野圭吾の作品である。
ノワールの傑作
悪の吹きだまりを生きてきた男。理知的な顔だちの裏に、もう一つの顔を持つ女。偽りの昼を生きた二人の人生を、“質屋殺し”を追う老刑事の執念に絡めて描く。
まず最初に言っておきたいのは、『白夜行』はノワールの傑作であるということだ。
あまり普段から小説を読まない方には“ノワール”とは言われてもなかなかピンと来ないだろう。“ノワール”とはフランス語で「黒」を意味し、転じて犯罪を主題としたような“黒い作品”に総称されるジャンル名である。暗黒小説と訳されることがある。
ノワール小説というのは、独特の文体様式があり、それはときに「酔う」とまで評されるほど読者に強烈な文章体験をさせる。文章が心地よすぎて酩酊状態になってしまうのだ。
この文章技術(技術と呼んでいいのか定かではないが)は日本でも限られた作家しか持ち合わせておらず、その代表例が花村萬月と馳星周である。どちらも日本を代表するノワール作家である。というか、日本のノワールはほとんどこの2人が独占しているような状態だった。
そこに殴り込みをかけてきたのが、若き日の東野圭吾である。
しかも、あろうことか、日本ノワール界の重鎮たちを押しのけるような傑作を仕上げてしまったのだ。
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小説界の蹂躙者
初期の頃の東野圭吾は硬めのミステリー作品ばかりを手がけていた。正直、お世辞にも面白い作品ではなかった。
しかし、1990年頃からそんな東野圭吾が豹変する。何かに取り憑かれたように、つぎつぎのミステリーのあらゆる限界に挑戦し出したのだ。
挑戦するだけならば誰にでもできる。だが、東野圭吾が発表する作品はどれも革新的で、当時の、いや今のミステリー好きたちさえも熱狂させてしまった。
※参考記事
ときにはホワイダニットであり、ときにはフーダニット。倒叙、叙述、SF、雪の山荘もの、ストーリーに主眼を置いたもの。
とにかく何にでも手を出した。出し尽くした。
その活動の一環で発表したのがノワール小説『白夜行』であった。
文庫版の解説は奇しくも、日本ノワール界の重鎮馳星周。
彼は解説でこんなことを書いていた。
自分もノワールを何年もノワールを書き続けているけれど、ここ最近はずっと同じ作品を書いているような気分だった。
でも白夜行はまったく新しいノワールだった。
白夜行は間違いなくノワールの傑作だと思う。
うろ覚えなので正確さにはまったく自信はないが、おおかたこんなような内容だったはずだ。
本家が認めるほどの作品を、ちょっと立ち寄ったぐらいで生み出してしまう。
他の作家からすれば堪ったものではないだろう。自分の得意分野だと思っていたのに、東野圭吾が横からあっさりと乗り込んでくるのだから。
まさに、東野圭吾はミステリー小説界の蹂躙者だったのだ。
白夜行の魅力
さて、そんな『白夜行』だが何が最大の魅力かといえば、やはりそこはノワールだ。一番の魅力は淡々と流れていく文章にある。酩酊するような文章だ。
現に900ページ近い文量を有しておきながらも、読んでいる最中は長さなんかまったく気にならず、むしろ心地よいので永遠に読んでいたくなるほどだった。
この辺りはきっとあの東野圭吾のことである。確実に何か文章に計算を働かせているはずだ。それが何か分からないのがもどかしいが…。私の分析力が足りず申し訳ない。今後の課題として取っておきたいと思う。
文章は極上。とは言っても、美しく着飾ったような文章ではまったくない。むしろ何にも添加されていないからこそ、引っかかりなくいくらでも飲み込めてしまう印象だ。
起伏のないストーリー
文章が平坦であるのと同様に、物語自体も実に起伏の乏しいものに仕上がっている。つまらないという意味ではない。いや、もしかしたらつまらないのかもしれない。
基本的にはある事件を追う老刑事と、それを巧みに交わす男女の追走劇となっている。
書き方によっては非常にスリリングで、手に汗握るようなものなる定番のストーリーにも感じられる。
だが、それがまったく違う。
本当に何も起こらない。
実際には起こっているのだが、何かが起こっている“予感”や“雰囲気”みたいなものが作品のそこら中に散りばめられている。
そして物語は静かに終わりを告げる。読者の感情も、追いかける刑事の執念も、何もかもを置き去りにして唐突に終わりを告げる。
映画化やドラマ化の影響もあり、また、東野圭吾の名前が作用した結果、クソほど売れているが、実は読んだ人の多くが読んでいる最中は「面白え!」と思いながらも、読後には「一体どんな話だったっけ?」と感じたのではないだろうか。
それくらい人に印象を残さない妙な作品に仕上げてあるのだ。
エンタメ作品というのは、緊張と緩和で読者を引っ張るのが基本だ。
しかし、『白夜行』ではその傾向は見られない。淡々とした描写がただひたすら続くだけだ。そこには刺激と呼ばれるものはなく、深い“味わい”が詰め込まれている。
読者は文章を通して、もっと奥の世界を東野圭吾の筆によって見せられているような気がしてならない。でないと、あれだけ夢中になる理由が分からない。こんな単純なストーリーなのに。
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実はミステリーではない
勘違いされるかもしれないが、『白夜行』はミステリー作品ではない。
確かに物語の中心には常に“謎”が提示されており、それが読者を引っ張る吸引力になったいることは間違いない。読んでいる最中、読者の頭の中には常に「?」が点滅していることだろう。
だが、しかしその謎は作品の中であまり重要視されていないような扱いをされている。
ネタバレはしない主義なので極力表現は控えるが、とにかく“謎”自体には期待しないでもらいたい。謎解きを楽しむような作品ではないのだ。
読者がつかむもの
『白夜行』は「つかもうとする人たち」が主要キャラクターとして配置されている。
その一人ひとりが、今の自分が持っていない何かをつかもうと藻掻いており、その姿は三者三様。だからこそ、ドラマと成り得る。
そして読者もまた、非常につかみ所のない『白夜行』という作品を読みながら、それでも何かをつかまえようとしてしまう。人は物語に意味を、答えを求めるようにできているからだ。
900ページに及ぶ一大叙事詩。つかもうとする人々が、藻掻いた先に手にするものは何か。
そしてそんな彼らを見ながら私たち読者が『白夜行』からつかみ取るものは何か。
『白夜行』という意味深なタイトルの意味は。
すべては本書の中にある。
以上。
ちなみに続編はこちら。東野圭吾は明言してないけど、別の作家のインタビューの中でネタバレされていた。