どうも。ポンコツブロガーのひろたつです。やる気に左右される毎日です。
今回は不謹慎極まりないマンガを紹介。
内容紹介
殺し屋1-イチー 新装版 1 (ビッグコミックススペシャル) | ||||
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元いじめられっ子の殺し屋・イチ VS ドMヤクザ・垣原。壮絶な殺し合いが幕を開ける!!気弱な青年イチは、心の内に強烈なドS性を秘めている。一方、命を狙われる事に悦びを覚えるドMヤクザ・垣原。宿命の二人が出会った時、新宿の街が血に染まる!!
私が『殺し屋1』に出会ったのは高校の頃。そりゃあもう衝撃を受けた。本屋で立ち読みしながら、こんなもんを読んでいいのか?周りの人におかしいやつと思われやしないかとヒヤヒヤしていたもんである。
それくらい、当時としては(いや、今もか?)抜きん出た暴力描写、残虐性、変態性を打ち出した作品だったのだ。
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表現のタガを外した作品
マンガなんてのは言ってみれば、非日常を表現したものだ。そうでないものもあるにはあるが、エンタメと呼ばれるものの多くは、日常を生きる大衆にとって“非日常”を描き出す。
読者は自分を安全な位置に置きながら、作中の自分たちに起こる非日常を眺め、間接的に非日常を体験し、快感を得るのだ。
この快感をできるだけ大きくしようとするのが創作者というものである。
そのためには色んな方法があるだろうが、一番安易なのは「表現を過剰にする」これだろう。
そして、『殺し屋1』は暴力という一点において、それまでのマンガにあった枠を壊してしまった作品だと私は感じている。
『殺し屋1』を境に極端な暴力表現を用いた作品がたびたび登場し、そして大ヒットを飛ばしている。
『闇金ウシジマくん』や『善悪の屑』はこの系譜だろう。
というわけで、『殺し屋1』はとにかく暴力表現がすごい。凄すぎて目が離せなくなる。
そして、さらにこのマンガが凄いのは、読者に痛みを感じさせる所である。
※このあと、実際にちぎるシーンが続く。めちゃめちゃ痛い。
あえてじっくりと痛みを表現することで、擬似的ではあるものの、まるで自分がその痛みを味わっているかのように、思わず顔をしかめてしまう。
実際、著者の山本英夫も「読者が痛みを感じるようにした」とインタビューで答えている。
わざわざそんな痛い思いをする必要などないのだが、それでも愚かな読者である私たちはまた“非日常”を求め、『殺し屋1』を手にしてしまうのだ。
背徳感はエンタメにおいてドーピング
『殺し屋1』というタイトルの通り、殺人をメインとしたストーリーではあるが、それ以外にもイジメ、レイプ、拷問、ヤクザなどなど、ダークなテーマをいくらでも孕んでいる。
はっきり言って、悪趣味である。
だが、悪趣味であり、世間では眉を顰められるような作品だからこそ、こんなにも面白いのだ。
悪趣味ということは、つまり背徳感を得られるということである。そもそもエンタメは最初に書いた通り、非日常を切り取って拡大したものである。普段目にできないものがあるからこそ価値があるのだ。
日の当たるような場所であれば受け入れられないことも、ひとり隠れて楽しむときには最高の調味料になるのだ。
背徳感は、ストーリーや設定といった二次元の世界ではなく、我々読者自身の変化を促す三次元的要素になる。だからこそ、背徳感を感じさせるような作品は、中毒性があり、より作品へ没頭させてしまうのだ。
本来は不快に思うべき
きっとそれゆえに逆のベクトルにも力が発生すると思う。
つまり日の当たる側。正の意見である。
「こんなマンガ、不快だよ」
それが人間が感じる正しい心のありようなのかもしれない。フィクションだろうとも、これだけ人が痛めつけられ、苦しむ様子が描かれているのだ。喜ぶようなものではない。
しかし結局これも背徳感を助長するだけである。
賛否があるからこそ人の記憶に残るような作品になるのだろう。そしてどれだけ否を生み出そうが、確実な賛を作り出すことで、商業として、作品として成功できるのだ。
ニッチの極み
山本英夫は『のぞき屋』の頃からそうだったが、人間の汚い部分をあえて描き出し、そして常に“強烈な”作品を生み出そうとしてきた。他の誰も描いてないマンガを生み出そうとした。
だからこそこれだけニッチな作品に仕上がったのだろう。まあニッチとはいえ、クソほど売れたけどな。
後発のマンガに多大な(甚大な)影響を及ぼした『殺し屋1』。
誰もいない所で、こっそりと読んでいてはいかがか。
以上。