どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。
今回は優秀なマンガのご紹介。
内容説明
『セトウツミ』は1話で完結するオムニバス形式である。なのでどこから読んでも楽しめるだろう。
キャッチコピーは「この川で暇をつぶすだけのそんな青春があってもええんちゃうか」。
その通り、男子高校生2人がただただ川べりでお喋りに興じるだけ、という非常に限定的なマンガである。派手なドラマがあるわけでも、心躍る冒険があるわけでも、恋に青春に燃えるわけでもない。多少の浮き沈みはあるものの、非常に平凡な日々が描かれている。
しかしながら、これが抜群に面白い。妙な中毒性がある。
そして私は思った。
「この面白さの正体は何なんだ?」と。
『セトウツミ』の限定的な設定
基本は主人公である瀬戸 小吉(せと しょうきち)と内海 想(うつみ そう)の2人の会話劇になる。この会話が非常にくだらなく、生産性の欠片もない。舞台はずっと川べりである。
こんな限定的な設定にも関わらず、『セトウツミ』を読んでいるときに感じるものは多彩である。バカな会話には吹き出してしまうことが多いし、思春期特有の切なさもあれば、人生や存在そのものに対する疑問みたいなものもある。
物語において設定は必須項目である。
設定萌えみたいな感情が人間にはあるようで、細やかな設定が用意されているだけで、テンションが上ったりする。物語にその設定が出てこなかったとしてもだ。
で、『セトウツミ』の場合、その設定がかなり効果を発揮している。ここで言っている設定は、キャラよりも作品そのものの設定のことである。
つまり「川べりだけ」「お喋りするだけ」という二要素である。
これによって、読者の心理に多大な影響を及ぼすのだ。
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限定的な設定が生み出すもの
限定的な設定は、コンテンツのツカミとして最高だ。
一昔前に『SAW』を代表とするソリッドシチュエーションが流行ったように、「限られた設定の中で、どんな想像力を発揮してくれるのか?」という期待を煽りやすい。 単純に興味を惹くわけだ。
また、限定的な設定は読者とのルールの共有にもなる。
「ここまでしか描けない」という線引を読者と作り手が共有することで、「じゃあ、それを踏まえた上で、どうすんのさ?」という、ある種のメタな楽しみ方ができるのだ。
もっと言うと、そもそも日本人は発想を限定されることが好きな人種である。
「好きにしなさい」と言われるよりも「テーマはこれです」 と言われた方が優秀な仕事をするのだ。枠組みの中で可能性を追求することが得意なのだ。
これは俳句などの文化にも通じる部分である。
そもそも設定と限定はイコール
このように考えていくと、気付くことがある。
そもそも設定とは限定のことである、と。
設定とは作者と読者の間で交わされる約束ごとだ。それを踏まえて読者は物語を楽しむ。表面に描かれることだけではない“物語の奥行き”を楽しんだりする。そしてより作品にのめり込み、愛着を抱く。こうなれば作品としての天寿を全うしたようなもんである。
人は限定に弱い。限られているからこそ、そこに価値を見出す。まあ、正直な話、私は希少価値なんてのは幻みたいなもんだと思っている。
ただ、物語における“限定”は確実に物語の優位性や独自性を高め、作品としての価値を確立する。「この作品でしか味わえないもの」がそこに生まれるわけだ。
アイデア量の豊富さ
『セトウツミ』を読みながら私は、作者である此元和津也の優秀さに何度も舌を巻いた。
彼のアイデアの豊富さと言ったらない。
本当に「よくこんなこと考えつくなぁ」という描写が連発される。そもそも、主人公ふたりの掛け合いが秀逸すぎる。言い回しとか、展開とか、視点とか、発想の煌めきがそこかしこに散らばっている。普通に読んでしまえば笑って終わりかもしれないが、落ち着いて読んでみると「凄えな、こいつ…」となる。
過去の作品を見ても同様だが、オムニバス形式のマンガは非常に高いクオリティを持っている。むしろオムニバスでつまらない作品を探す方が難しいかもしれない。私の記憶にはちょっと見当たらない。
しかしそれは「オムニバスを描けば面白くなる」という意味ではない。毎話を支えるだけのアイデアがそこに存在しないといけない。いくらでも秀逸なアイデアや視点を生み出せる人間でなければ、許されない表現方法だと私は思う。
とまあ、非常に真面目くさった文章を書き連ねてみたが、『セトウツミ』の内容自体は、ポップなコメディーである。重々しく楽しむような作品では全くない。
この記事はあくまでも『セトウツミ』という作品の面白さの理由を、私なりに分析してみただけである。また、それが少しでも『セトウツミ』という作品に興味を持つ方が増えるキッカケになればいいと思う。
以上。