間違いない名作。だけど卑怯な作品でもある。
最強のインド映画
どうも、読書ブロガーのひろたつです。うまくいくと思っているときは大抵失敗しています。
今回は映画の話になるのだが、世の中にある“物語”というもの全般に関わる話にもなる。そして、ネット時代の物語の「創作術」が今後どうなっていくのかについても、話を広げてみたい。
まずは今回の記事のメインになる映画を紹介しよう。異例の大ヒットを遂げたので、ご存知の方も多いことだろう。
インド映画歴代興行収入No.1を記録した感動ムービー。超難関理系大学・ICEに通うランチョー、ファルハーン、ラジューの“3バカトリオ”が学長を激怒させ巻き起こす珍騒動と、行方不明となったランチョーを探す10年後の彼らの姿を同時進行で描く。
なんと2時間51分にも及ぶ大作である。でも歌とダンスのシーンを飛ばせば、2時間ぐらいかも。制作陣には申し訳ないが、やはりインド映画の歌&ダンスは冗長すぎに感じてしまう。実際、インド人も飛ばしてる人多いらしいし。
まあそれはいいとして、この映画は相当レベルが高く、物語の完成度だけを見れば、数あるエンタメ映画の中でもトップクラスだ。
ぜひ観てもらいたい。
…。
はい、宣伝終わり。
ここからが本題である。
創作における倫理観
冒頭でも書いたがこの『きっと、うまくいく』は、実に卑怯な作品である。それは「物語を創作する」という行為において、非常に倫理観を問われるものだ。
ぜひともその問題を皆さんと共有したい。
ちなみに、私はネタバレをしない主義なので、映画の直接的な内容には触れないようにする。しかし、勘の良い方や想像力の逞しい方には、ある程度の予測ができてしまう部分が出てくるかもしれないので、一応注意喚起させてもらう。
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最高の物語の主成分
私が観る前から「超感動作!」的な評判を目にしていたので、だいぶハードルが上がっているのを自覚していたが、それでも『きっと、うまくいく』は面白かった。これは本物の証だと思う。
だがだ。
観ている最中ずっと気になっていることがあった。
『きっと、うまくいく』は素晴らしい物語である。笑い、悲しみ、怒り、感動、驚き…などなどエンタメにとって必要なものがフルコースで入っている。
だけど、それらのほとんどが“パクリ”なのだ。
パクリというと著作権的な問題を想像されるかもしれないが、『きっと、うまくいく』の場合それにはあたらない(法律には詳しくないので断言できないけど)。
というのも、『きっと、うまくいく』で描かれているエピソードのほとんどが、ネットテキストでよく見かける“コピペ”と同じなのだ。
具体的な例を出すとネタバレになってしまうので控えるが、まとめサイトなどで「笑えるコピペ」的な記事をよく読む方であれば、知っているような有名なものばかりだった。
それってどうなの?
ネットに漂う無数の秀逸な“コピペ”たち。それを物語のエピソードとして流用する。
誰に著作権があるわけでもなく、使い放題だ。
でも、物語を愛する者としては「それってどうなの?」と疑問を感じぜずにはいられない。
これがOKになってしまうと、これからの物語創作術というのは、様変わりするだろう。
だって、わざわざ自分で考えるよりも遥かに効率的で、しかも良質なアイデアを生み出せる方法があるのだ。つまり「ネットで面白いエピソードを拾い出せばいい」という方法だ。
まとめサイトは腐るほどある。「いいね」や「リツイート」をたくさんされているものだって簡単に見つけることができる。
人が興味を持ったり、心動かされるエピソードを、ネットという文化が勝手に淘汰して厳選してくれる。
あとは生き残った秀逸なものを選ぶだけ。そしてそれらを繋ぎ合わせれば“絶対に面白い物語”の完成である。
これって創作だろうか?
編集という創作
確かにいくら面白いエピソードを集めたとしても、「オッス、オラババア!」と嘘松に代表されるようなホモエピソードが混じり合うとは思えない。そこにはそれなりの“編集技術”やセンスが問われるだろう。
そういえば、いつだかのTVタックルで、ひろゆき&ホリエモンとコメンテーターが「編集は創作か?」という討論(ほとんど闘論だったけど)をしていた。
取り上げられていた例はやっぱり「まとめサイト」だった。自らで創作をするわけではなく、2ちゃんねるの情報を切り貼りするだけ。それを創作とは呼べない。それは「編集」だ、というのがコメンテーターの意見。
それに対してひろゆき&ホリエモンは「編集という創作」だと主張していた。
何を捨て、何を残すか。うん、それは確実に創作の技術だ。
でもそれを認めた先にあるのは何だろうか?
早い者勝ち
著作権不明のエピソードを著作権のある物語に使用する。そうすればその後は自分のものになる。『きっと、うまくいく』の“元コピペ”たちもそうなってしまった。
こうなるとつまりは“早い者勝ち”の世界に突入する。
いかに面白いものを早く見つけるか。そしてそれをいかに早く自らの物語としてしまうか。
その勝負になってしまう。いわゆる情報戦というやつだ。
話は逸れるかもしれないが、今の音楽界(2017年8月現在)も同じような様相を呈している。
この楽曲がそれに代表されるだろう。
『関ジャム』でtofubeatsが紹介していた楽曲なのだが、ある秘密がある。
ブルーノ・マーズの超大ヒット作(今の時点でYOUTUBE再生回数8億ぐらい)である『24magic』のイントロ部分を逆再生させて切り貼りしてトラックを制作しているのだとか。素人では絶対に分からないレベルだけど…。
パクリといえばパクリ。ヒップホップ文化の延長でもあるし、高度なオマージュかもしれない。音楽にはあまり詳しくないので正確なことは言えないが、とにかくこういった手法を使うことで、「効率的で良質な創作」ができてしまうのだ。
この楽曲を紹介していたtofubeatsも、「昨年の大ヒットをすぐさま利用する瞬発力が素晴らしい」と評価していた。
創作における幻想
考えてみるまでもなく、本当の創作なんてもんは存在しない。
どんな秀逸なアイデアも、絶対に何かしらの触媒(元ネタ)がある。だからこそみんなにも理解できる。完全に新しいアイデアなんてもんが本当に存在したならば、きっと誰にも理解されないだろう。それこそ『ヴォイニッチ手稿』みたいなもんができると思う。
なので、いくら私が「編集に頼るのは卑怯じゃないか」とか言ったところで、「じゃあどうすればいいのよ?」と問われると「むぐぐ…」となってしまう。答えは持ち合わせていない。
『きっと、うまくいく』を観て感じた失望感。パクリで物語を創造してしまうことへの抵抗。
それらは受け手である私の度量が狭いからこそ発生しているだけなのかもしれない。
パクリは当然のことであり、そこには何の罪もない。
私はただ単に幻想を見ていただけなのだろうか。
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客をナメんな
なんていう、しおらしいことを書いてみたが、内心は全然納得していない。
結局はパクリかオマージュかの違いだと思う。
さきほど紹介した楽曲の場合はパクっているかもしれないが、創作者のオリジナル性を感じる。調理している。だけど『きっと、うまくいく』のパクリ方は丸パクリである。素材をそのまま皿に乗っけている。刺し身にすらなっていない。これはダメだろう。
この例えからも分かる通り、創作というのは料理と同じだ。
畑から引っこ抜いて泥だらけの大根を客の目の前に出すことを料理とは言わないだろう。そこには何かしらの工夫が介在していなければならない。
引っこ抜いたそのものを食べて喜ぶのなんてTOKIOぐらいだろう。そんなのあまりにもレベルが高すぎる。いや、低すぎるのか?よく分からないけど、私のような一般人には認められないことだけは確かだ。
客がたまたま元ネタを知らなければ別に問題ないかもしれない。
だけど今回の私のように知っていた場合、そこに生まれるのは“作者への不信感”である。パクるのは構わないが、そこに誠意を混ぜなければこの不信感は払拭できない。
そうか、パクリに誠意を添えるとオマージュになるのか。
ということで、私が今回の記事で一番言いたいのは
「客をナメんな」
である。
物語の創作が、未来において健全であること願って筆を置くとしよう。
以上。
ちなみに『きっと、うまくいく』で主演の大学生を演じているアーミル・カーンは出演当時44歳である。年齢詐称にもほどがある。詐称ではないか。