どうも。今日も絶好調で不貞腐れているブロガーのひろたつです。
今回は職場で感じたことの話。
素晴らしきかな、いい人
会社で色んな業務があるが、その中にはみんなが嫌がる仕事というものがある。当然、仕事なのでいつからは誰かしらがやることになるのだが、手を変え品を変え、みんながみんな避けて通ろうとする。
そんなとき、みんなが嫌がる仕事をやってくれる人が現れる。俗に言う“いい人”である。
かくいう私も嫌な仕事からは逃げ続ける側の人間であり、そんないい人には常におんぶに抱っこをしてもらっており、感謝の念が耐えない毎日である。でも感謝はするけど仕事は変わってあげない辺り、自分の狭量さに感心してしまうぐらいだ。聖人もいればクズもいるのが世界である。ええ、私がクズです、どうぞよろしく。
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いい人は消耗する
このように職場にたまに現れる“いい人”というのは本当に人格的に素晴らしいものを持っている。美しさを感じるぐらいである。
でも悲しい現実がそこにはある。
私がそうであるように、基本的に人間みんなクズばかりだ。嫌な思いも損もしたくない。誰か“いい人”がその役目を負ってくれるのならば、任せたくなる。それが普通の人のレベルである。
なので、職場でそういった“いい人”は次第に消耗していくことになる。みんなが“いい人”に甘え、寄り掛かるようになることで負担がどんどん大きくなっていくのだ。
そして、いい人ほど続かずに職場を去っていってしまうのが現実。
私の職場に限ったことじゃないと思う。
当然、そうあっては欲しくないとも思うが…。
毒の必要性
いい人の多くに見られる特徴として、「毒がない」というものがある。
誰も傷つけないし、威嚇もしない。やったとしても、ちょっと困ったような顔をするだけ。まるで攻撃力ゼロである。だから常に周囲もいい人を利用することに抵抗を感じずにいられる。
少しでも嫌がったり、文句を言ったりすれば、甘える側もそれがストレスになるので、毎度毎度寄り掛かるようなマネはしなくなるのだが、いい人にはその「相手にストレスを与える」ということができないのだ。
本人の心や体が無敵なのであれば、毒なんか必要とせずに生きていける。
だが、ストレスに対して無敵な人なんていない。誰しもが限界とするレベルがあるはずである。
もし自分が「限界!」と感じるのであれば、毒を撒き散らしてでも自らの身を守るべきなのだ。それが正しい毒の使い方である。他人をこき下ろしてストレス発散するのは、正しい使い方ではないのだ。
周囲の成長のためにも
そして、「甘えるんじゃない!」と毒を吐き出すことは、周囲の腐りきった(私のような)人間たちを正すためにも必要なのだ。
人は基本的に愚かなので、少しぐらい痛い目を見ないと成長できない。
周囲の要求や甘えをいつまでも「いいよ、いいよ」と受け入れ続け、(いつかは分かってくれるはず…)なんて考えるのは甘すぎると思う。
いい人側からすれば北風と太陽で言う所の“太陽”戦略なのだろうが、それでは一生その環境は変わらないだろう。私たちクズどもに必要なのは北風であり、ムチなのだ。
もちろん中には、太陽やアメだけで気付いたり成長できる人もいる。
だが、そういう人はそもそもかなり人格的に優秀だったり立派だったりする人である。一般的に見たらレアキャラである。その存在はあまりにも希薄である。
大概の人間は、太陽やアメをもたらす存在を舐めてかかることだろう。もちろんそれは甘えることと同義である。
怖いだけなんじゃないか?
だから私は思う。
周囲の人たちを甘やかしてしまうタイプの“いい人”というのは、ただ単に「波風を起こすのが怖いだけの人」なんじゃないだろうか。
毒を吐くのは相手を一時的にだろうが、傷つける行為である。それが嫌で少しでも人とぶつかることを避けてしまうのだ。
昔、私がまだ部下を持ち始めたばかりの頃、尊敬する上司に言われたことがある。
「本当に優しい人ってのは人を叱ったり注意することができる。でも外面ばかりが良くて、叱ることも注意することもできない上司ってのは、本当に優しい上司じゃないよ。むしろ部下の間違いを正さずに見て見ぬふりをしているんだから、ヒドい上司だよ」
自分の身を守る以上に大事なことがあるように思ったりする。
以上。
ということで、いい人に劇薬的な効果を発揮するのが『嫌われる勇気』。
自分を、人生を変えるキッカケにしてほしい。
嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え | ||||
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