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努力は始めるときが一番辛く、継続できてしまうと今度は止めるのが難しくなる

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努力は必須 

努力は人生を有意義なものにするために必須だろう。

努力をしない、または努力を意識しない人生には「生きがい」が無くなる。

負荷があるからこその「生きがい」であり、何の労もせずに「生きがい」は手に入れられないだろう。

 

なんてことを、しょうもない自分の人生を肯定するために、自分自身に言い聞かせていたりする。

 

真実がどうであれ、基本的に努力は世界的に認められている行ないである。できれば誰もが努力できる人間になりたいと思っているだろうし、新たな能力を身に着けたければ努力が必須である。自らに負荷をかけなくてはならない。

そして、それと同時に努力は負荷であるがゆえに、困難なものだったり、継続することが難しいことだと思われている。

だが実はそれは違う。

 

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始めるときの負荷が一番高い 

マラソンをやったことがある人はよく分かってくれると思うが、どれだけマラソンの習慣が付いた人でも、マラソンに行く前というのは結構憂鬱である。頭の中にあるのは、これから自分の身に負荷をかけることの億劫さばかりで、走りきった後の爽快感なんてどうでもよくなっている。

それは休み明けの月曜日とまったく同じ状態だ。

 

人は何かを始めるときに一番負荷を感じる。機械も同じで電源を入れるときが1番、電力を消費する。“始める”というのはそれだけエネルギーを必要とする行為なのだ。

 

継続は惰性でできる

しかしこれが継続となるとそうでもない。

マラソンの例に話を戻すと、走り始めは憂鬱だったり億劫だったりし、体も苦しさを訴え出す。

300mも走り出す内に体が馴染んできて、憂鬱さも苦しさも鳴りを潜めるようになる。決して無くなるわけではないが、意識的に追いやれるぐらいには存在感が薄くなってくる。平常運転という感じ。

そのまま距離を稼ぐのは容易である。

 

つまり走りを“継続”することは始めることに比べればとても簡単なのだ。

これは水曜日、木曜日辺りの朝の状態と同じかもしれない。もうすでに継続することが常態化しているわけだ。

 

単なる継続は効果なし

ではこれでみんなが求める“努力できる自分”が手に入れられるのだが、それで終了かと言えばそうでもない。

 

努力というものの性質上、ただ単に継続するだけでは意味がない、という問題がある。

努力は確かに人生を有意義にするために大事なことだし、必要なことだが、それでも条件がある。

努力は「正しい場所で、正しい方向で、十分な量」をしないと結果に繋がらないのだ。

 

この見極めが非常に難しい。

というのも、人は継続を難しいと思いたがるクセがあるので、下手に継続できてしまうと止めることが難しくなってしまうのだ。つまり「もったいない」と思ってしまう。

いわゆる「損切り」ができない状態になってしまうのだ。

 

努力を始めるにはエネルギーが必要で、努力を止めるには覚悟が必要。

どちらにしろ努力には常に負荷が付きまとうということである。

 

自問してみよう

少し自問してみてもいいかもしれない。

 

努力をしたくないと思っている自分は、ただ単に始めるとき特有の「億劫さ」に負けているだけではないか?

 

努力できていると思っている自分は、ただ単に止める覚悟ができないだけじゃないか?

 

そんな冷静な視点を持たない限り、自分が望むべく結果は手に入れられないだろう。

 

以上。