どうも。
ちょっとした人生のお話。
本気でやってますか?
仕事、恋愛、趣味、家事、なんでもいいのだが、何か「これは本気でやってる」というものがあるだろうか?
あるとしたらあなたは素敵な人だ。
本気でやると何がいいかと言うと、結果が得られることに尽きる。結果が欲しいからみんな本気でやるのだ。
一位になりたい、綺麗になりたい、好きになってもらいたい、数字を上げたい、などなど求めるものはそれぞれあれど、何と言っても結果だろう。
本気でやると感情が乗る。それが原動力になる。思わぬ力を発揮することもあれば、逆に空回りしたり、とんでもない失敗をしたりする。ただそれでもエネルギーが高まっているからこそだ。失敗は悲しいかもしれないが、それはそれで人生の醍醐味だったりする。
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求める結果になるとは限らない
競争が基本となる社会、というか私達の人生の中では、自分の思った通りの結果になることはそれはもう少ない。泣きたくなるほどに。私のような低スペックの人間であればなおさらだ。自分の脳力に文句を言った所で仕方ないのは分かっているのだが、嘆かずにはいられないのがまた低スペック人間である所以だ。
負けることが好きな人はあまりいないと思う。人間は結果を求めるようにできている。太古の時代、それが生きることとイコールだったからだ。
しかし現実で結果を得られることは少ない。そうすると、どうなるか。そこにはふたつの道がある。
ひとつは「じゃあ次はどうしたらいいか?」と未来へ歩を進めること。
もうひとつは「じゃあもう競争はしない」と試合そのものを放棄すること。
自分ではどうにもできない過酷な状況を経験した人が途端に無気力になったりするのはこのためである。
競争をしなければ、なににも執着しなければ、傷つくことも劣等感を感じることもない。広い目で見れば、人間は常に競争をしているようなものなのだが、目を背けることでムダに心を消耗しなくて済むわけだ。
結果さえあればいいのか?
競争に勝つ者は少ない。その限られた席を取り合うことは、人によっては醜いと感じるかもしれない。結果至上主義という言葉は悪い意味で使われることの方が多いように感じる。
でもこの結果というやつは何なのだろうか?
数字、理想像、思い通りになること。どれも結果と呼ばれるもので、そのために人は競争をする。
じゃあ例えば、ある日、なんとなく買った宝くじで一生働く必要がないくらいのお金を手に入れたとき。 これはある意味、お金を稼ぐという競争で抜きん出たようなものだと思う。
じゃあ例えば、車を後ろからぶつけられて多額の保険金が入ってきたとしよう。あなたの手元には大金が転がってきたが、相手は保険に入っておらず莫大な損失をしたとする。
どうだろうか?結果を手にしているわけだが、何か腑に落ちないというか、気持ちの悪いものがあるだろう。
結果の正体
思うに、結果というものの正体は「感情」なのだ。
数字や思い描いた理想像というやつはあくまでも副次的なものでしかなくて、私たちが求めているのはそれらを手にしたときの感情なのだ。だから気持ちの悪さが残る結果だと満足できないのだ。
競争の果てに感情を得るためにはある条件が必要になる。それは宝くじの例の通り、競争に勝つことではない。
本気でやること。それだけである。
何かを犠牲にする。とにかく打ち込む。人生を注ぐ。頭の中をそれで埋め尽くす。
そうやって本気でやった先にしか、私たちが「結果」として認識できる本物の感情はやってこないのだ。これは感動と言い換えてもいい。
適当にやれば適当な感情しか得られない。そういうふうに私たちはできている。
本気でやること。感動すること。
それが人生の目的でもあるのかもしれない。なんて書いたら大げさだろうか?
以上。
びりっかすの神さま (新・子どもの文学) | ||||
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