どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。
まったくもって読む価値のない記事が書けたので読んでほしい。
言葉フェチの憂鬱
何を隠そう。私は無類の言葉フェチである。
言葉がそこにあるだけで幸せになれる、脳内お花畑野郎である。花の種類はきっとパンジー。
で、そんな言葉フェチの自分からすると、許せない案件がある。「歌詞の日本語適当すぎる問題」である。
例えば、聞くたびに怖気立つのが「よに」。
お分かりだろうか?よに。
歌詞が「ように」なのに、メロディーの都合で短縮して「よに」って歌っているのだ。
よにって。どこの言葉だよ。普段使う?よに。「あの書類、この前のよに直しておいて」とか「私よに取っておいて」とか言わんでしょ。そっちの世界じゃ「使用人」は「しよにん」なの?ゆるキャラの名前かよ、きっもちわりい。
この気持ち悪さって、宇多田ヒカルのFirst Loveの「だはー」と同じレベル。なんだよ「だはー」って。「だろう」と「だはー」って違いすぎるだろ。寄せたとしても「だほー」でしょ。「ろう」が「はー」って。じゃあお前らからしたら、あの日本が誇る世界的美術家も「おかもとたはー」なわけ?あいみょんよりもトリッキーなアーティスト名だな。
※参考動画
もうね、街中の有線で『First Love』がかかってるときの危機感ったらないよね。
本屋とかであのイントロが聞こえた瞬間「うわっ、やっばい」ってなる。じわじわと迫り来る「だはー」に完全に警戒態勢。本の情報なんて1ミリも入ってこない。ただただ笑いを堪えることに必死。「来るぞ来るぞ…”だはー”が来るぞ…!」と思ってるだけで口元が緩んでくる。ニヤニヤを押さえつけられなくなる。本を見つめながらひとりでニヤけるおっさん。完全に変態だ。通報されても「でしょうね」って言うよ。
歌詞って大事じゃないの?
とにかく私は歌詞をないがしろにしてほしくないのだ。
邦楽の歴史的には桑田佳祐から、日本語を崩して歌い始めたらしいが、最近はちょっとやりすぎじゃないだろうか。
せっかく我々のDNAには「日本語の響きを美しく感じる」という感覚が刻まれているのだから、日本語をもっと楽しんでほしい。英語の発音が気持ちよく感じちゃうのも否定しないんだけどさ。それにしたって「よに」はねえだろ。全然英語関係ないし。っていうか何語だよ。さっきも書いたか、これ。
どこかのレジェンドアーティストが「歌詞なんて聞こえなくたっていいんだよ」とか仰ったそうだが、だったら全部ラララでいいじゃん。言葉を使っている以上、狙っている効果があるはずだろ。伝えたいメッセージやら表現があるはずだろ。でなければ言葉という記号を選ぶ必要がない。前衛芸術みたいに解説に書いておけばいい。YouTubeだったら概要欄にでも書いておけ。
母音差別
「よに」に代表されるように、邦楽では母音を省略する手法がまかり通っている。
私からしたら、これは完全なる母音差別である。世の歌い手たちの「母音だから無視してもいいか」という内なる声が聞こえてくる。
もし「差別なんかしてない」と言うのであれば、子音も母音と同等程度に省略してほしい。絶対に無理だろう。「ように」を「よに」にはできても、「おうい」にしたら、まったくもって訳が分からないだろう。「岡本太郎」は「おあおおあおう」だ。原始人かよ。そんな歌い方してるアーティストがいたら、めっちゃ課金してやるよ。
でも世のアーティストは腰抜けだから、母音は無視できても、子音は無視できない。だから言っているのだ、母音差別だと。母だからって、ないがしろにしていいってわけじゃないんだぞ。いつまでお母さんに甘えてんだ。大概にせえや。
他にもある
気に入らないパターンは、他にもある。
「ずっと」⇒「ずと」
「なれそうもない」⇒「なれそもない」
「を」⇒「うぉ」
どれもこれも、言葉よりもメロディーを優先されたがゆえに生まれた異形の者たちである。
無理やり姿かたちを歪められた彼らの嘆きがあなたには聞こえてこないだろうか?私には聞こえる。耳をふさいでも完全に聞こえてくる。誰かいい医者は知らないか。こんな歌い方しかできないあいつらを診てやってくれ。
「ずっと」を「ずと」とか、SPICY CHOCOLATE(オリジナル・ラブ専門カバーアーティスト)だったら、楽曲として成り立たねえだろ。
SPICY CHOCOLATE - ずっと feat. HAN‐KUN & TEE
それにしても「を」⇒「うぉ」の普及率の高さと言ったらない。下手したら識字率よりも高いだろ。学校で教えてるんだろうか。私が通っていた学校では教えてもらってないんだけど、もしかして私が学校だと思ってたあそこは、学校じゃなかったのだろうか。怖い。
ということで、世のアーティストたちは、学校の定義を疑わせる原因になるから、歌詞をもっと大事にしてほしい。
以上。