どうも、読書中毒ブロガーのひろたつです。クリームパンが苦手です。
今回は朝井リョウの名作にして怪作、『正欲』についていらん深掘りをしたいと思う。
この作品、本当に「読めば分かる」という類の作品であり、深掘りもなにも読んだときに感じたとの感覚がすべての答えだと思っているのだが、「お前のレビューが読みたいから書けよ」という奇特な方からの要望があったので、無理やり筆を執っている次第だ。人気ブロガーがツライね。
繰り返すが『正欲』は名作である。
語ろうと思えばいくらでも語ることが出てくるはずだ。なんてったって人類を活かしも殺しもする欲望、逃れようのないカルマである“性欲”に真っ向からぶつかった作品である。全人類に刺さって然るべきだ。
そこで、今回の記事ではポイントを以下の3つに絞って語りたい。
1.『正欲』の効果について
2.みんなの感想がチャラい問題
3.その上で朝井リョウという作家のバランス感覚について
これらを語ることで、未読の方には『正欲』への期待を高めつつ、既読の方には一緒に答え合わせをする楽しみを提供できるものと期待する。
ネタバレ撲滅委員会を主宰している身の私なので、作品を深掘りはするものの作品の中身については限界までは触れないように気をつける。
しかしながら、遠からず作品の周囲をウロウロするような文章になるので、先入観一切なしで読みたいという賢明な方はぜひともブラウザバックしてもらいたい。私もそっち派だ。
ではヘボブロガーなりに、この怪作に食らいついてみようではないか。
行ってみよう。
①『正欲』の効果について
まずは一番共感を得やすそうな話題から。
『正欲』を読んだことによる影響、その効果についてだ。
『正欲』を読んだ方のほぼ全員に起こる現象だろうが、読み終えた瞬間に倒れ込んでしまう。
得体の知れない大きな衝撃を受けてしまい、物語から解放された瞬間に重力に抗えなくなってしまうのだ。
『正欲』で語られる主人公たちの生き様は、とても切実で、苦しく、しかし美しさを放っている。あくまでも“彼らの物語”でしかないはずなのだが、なぜか読んでいるこちら側が指を突き付けられたような気分にさせられてしまう。
もっと正確な表現をするならば、“彼らの物語”を知ったことで、「今までの自分が恥ずかしくなる」のである。
私の場合、『正欲』によって完全に価値観をぶっ壊された。それこそ読み終えた瞬間は廃人も同然だった。なんもする気がおきなくなった。ただでさえ無気力人間なのにどうしてくれるんだ。
私は年齢も重ねてきているし、読書が趣味だし、それなりの見識があるようなつもりになっていたが、大間違いだった。
私には見えていなかった。分かったようなつもりになっていた。知っているつもりだった。
『正欲』を読み終えた私は、自身のあらゆる「足りなさ」を一気に認識してしまい、それによって「もう無理…」と倒れ込んでしまったのである。作品に価値観を物理的に殴られた気分だ。
この感覚は『正欲』を読んだ方であれば共感してくれると思う。
大げさじゃなく『正欲』を読む前と後では、世界の見え方が変わった。いや、変わってしまった、だろうか。もう読む前には戻れない。
陳腐な感想だけど言わずにはいられない。普通って何?
きっとそれぞれに『正欲』で受けた影響は違うだろうが、私にとって最大のポイントは「普通」についてである。
私たちは自分の普通を意識できない。なぜならそれが当たり前だからだ。
ではどんなときに「普通」を意識できるか?
それは自分にとっての「異常」と接したときである。
不快だったり、失礼だと感じたり、奇異に思ったり。そんな異常さを目にしたとき、人は「普通はこうだよね…」と言い出すのである。
そう、「普通」は見えないのだ。「異常」というフレームによって浮き出てくるシルエット。それが「普通」なのである。
そんな曖昧な概念なのにも関わらず、私たちはそれぞれの「普通」をあらゆるものごと基準にしていて、気に入らないものは異常と断罪してしまう。
全部が普通だったら、なにも見えなくなってしまうのに。
『正欲』はそんな私たちの「無自覚な断罪を断罪」する作品である。
「あなたたちはこんなにも見えていないのですよ」と言われているようで、しかもそれが身に覚えのあることばかりで否定しようがないのだから手に負えない。
読書は受動のメディア
いい本と出会うたびに思うのだが、本というのは読み手が試されるメディアである。
文字情報というのは、映像や音声と違って、勝手に流れ込んでくるものではない。受け手が積極的に取りに行かなければなにをもたらしてくれない。
それが人によってはまどろっこしく感じたりするだろうし、また私のような人間にとってはやりがいがあると思わせる。
この「受け手が積極的に取りに行く」というワンステップがあることによって、読書で得られる体験というのは、劇的に濃度を高める。
本気で臨めばそれ相応の結果を返してくれる。それが快か不快かはそのときどきだが、確実得られるものはある。人生と一緒だ。
だからこそ『正欲』を小説という形で愉しむことは、とても意味があるのだ。
もしかしたら映像化もありえるし、それにも耐えうる作品だとは思うけれど、小説と比べたら、受け手の本気度が違うから影響の大きさも変わってしまうだろうな、と予測する。
たぶん「切ない話だったね」とか「めっちゃ泣いた…」みたいな感想が大部分を占めると思う。ハナクソである。
…って、やべーな。まだ1つ目のポイントしか書いてないのにかなりの文量になってしまった。ペースを上げていこう。いくらでも話題が派生させられるから危険だよ『正欲』は。
②みんなの感想がチャラい問題
次はちょっと視点を変えてみよう。皆さんの感想についてである。
先に言っておきたいのだが、決して皆さんの感想を否定しているわけではなく、傾向について話しているだけである。
あと勝手にみなさんの感想を深読みしているが、私の妄想なので無視してほしい。
…さて、存分に予防線を張っておいたところで、好き放題書いてみよう。
これだけの作品なので、ネットには絶賛や圧倒の感想が溢れてる。
きっと皆さんも見かけたと思う。
だが何か気付くことがないだろうか?
または、ほとんどの感想に似たような雰囲気を感じないだろうか?
というのも、私はみんなの感想を見かけるたびに「その感情、分かるぞ…!」と深く頷いていたわけだが、それと同時に「なんか遠いな…」という感覚があった。
読了後の興奮は伝わってくるんだけど、作品と距離感があるのだ。
他の作品の読了感想よりもなんというか、「ぼんやり」「おおざっぱ」な印象を受けたのだ。もっと嫌な表現をすると「はぐらかしている空気」を感じた。
具体的なツイートは出さないけれど、『正欲』の感想でよく見かけるのはこんな感じ。
「やられた」
「刺さった」
「価値観が変わった」
「これは考えさせられる」
なんかチャラくね?
そう、もしかしたらお気づきの方もいるかもしれないが、私がさきほど「正欲の効果」の項目で書いたような内容ばかりなのである。
自分で書いておいてなんだが、こんな感想は何も語っていないに等しい。殴られて「痛っ」と言っているのと同じである。ただの生体反射現象である。
もっと細々と語っている感想もあるけれど、それでも受ける印象は変わらない。なにか「作品を撫でてる」ような軽めの感想が多いのだ。「やられた~」みたいなチャラさが抜けていない。
これは『正欲』で大いにダメージを受けた私としては看過できない。もっと騒げ、話題にしろ。語り合え。もっと突っ込んだ感想をくれよ!作品はあんなにお前らに突っ込んでるのに、なんでそれ相応に答えないんだよ!と思ってしまう。
感想がチャラい理由
ではなぜみんなそんなチャラい感想しか書かないのか。
ずばり、「自分の性癖を人質に取られているから」である。
『正欲』で語られるテーマは「性欲」である。そしてそれを取り巻く「普通」という曖昧なくせに強力な概念についてである。
どちらも作品の根幹をなすテーマだ。なのにみんな具体的な話はせずに、価値観がどうたらとか読み終えて廃人みたいになった~とかいうカスみたいなコメントしか書かない。
これは逆に言うと、「性欲」については突っ込んで書けないのではないだろうか。
あんまり気色悪い話はしたくないのだが、流れ上仕方ないので語るが、私にもある特殊性癖が存在する。
具体的に語って悦に入るほど落ちてはいないので省略するが、これで苦しむ瞬間というのはたしかに存在する。つまり体験談として『正欲』に重なる部分があり、肉声の感想を語れるのだ。
それなのに、さきほどから皆さんに再三語っているとおり、なんともぼんやりした話題ばかりに終始している。
だって、下の話なんてしたくないし、したいと思ったとしても需要がないと思うし、自分の性癖はさらけ出すの抵抗がある。性癖で苦労している部分を出すのは気まずい。
これは考えてみればおかしな話だ。
もし別の作品で「余命何年の人が精一杯生きた」という物語があれば、それぞれに自分の生について語りたくなるだろう。もしくは身近な人の生の尊さについて。
でも性については語らない。気まずいから。『正欲』はまさにそこについて語っている作品なのに。
『正欲』の凄さ、素晴らしさは知ってもらいたい。なんとか感情を吐き出したい。
だけど自分の性癖が人質に取られている以上、性の話はできない。作品に真っ向から挑んだ感想は書けない。
となると「参りました」と白旗を揚げた様子を見せるしかない。そうやって作品の凄さを伝えよう。
品を保って語れるところがそこしかない。上手な感想を落とし所が他にない。
その結果がみんなの「チャラい感想」なのである。
しつこいようだが、それが悪いとは言っていない。
皆さんなりに『正欲』と体裁を秤にかけた結果である。なんでもさらけ出せば良いというものではない。社会性によって自らを黙らせることだって必要だろうし、黙らせられることだってあるはずだ。
まさに『正欲』で語られていた通りに。
③その上で朝井リョウのバランス感覚について
とまあこんな感じで、『正欲』という作品の凄さと読者に与える影響について語ってきたわけだが、最後はそんな作品を生み出した作者に視点を向けてみよう。
これこそ無粋限りないとは思うのだが、こういう話題が好きな人が多いし、私も大好きなので勝手に色々語ってみたい。見当外れだと思うこともあるだろうが、アホが勝手に言ってるだけなので許してほしい。
『正欲』のテーマ、「性欲」。
みなさんが感想で取り上げるのを避けるように、なかなかエグみの強いテーマである。
こっそり愉しむには最高だが、大ぴっらにするのには抵抗があるだろう。
で、読み終えた方にぜひ聞きたいのだが、『正欲』を脳内で描いた映像の印象はどうだろうか?
たぶん多くの方が「美しかった」と答えてくれると思う。
性というある種、グロテスクさを伴うテーマなのに、映像は美しく保っている。
ここに私は朝井リョウという作家の卓越したバランス感覚を見るのである。
中身について具体的に語らないが、朝井リョウは作品を通して、読者が「完読できるように」とあらゆる配慮をしていることが伺える。
例えば登場人物。
主要メンバーたちは自然に配置されているが、それでも読者の感情が極端に「不快」に振れないような人物を選出している。
言っている意味が分からない方は、ぜひ『正欲』の中身を「50絡みの部屋が散らかり放題、風呂にもまともに入らない無精髭だらけのオッサン」に変換してみてほしい。それであのページ数を耐えられるだろうか? 厳しいと思う。
しかし作品の抱えているテーマからすれば、それでもまったくおかしくないし、なんなら相応しいぐらいだ。
または扱っている癖がリョナだったらどうだろう。(※リョナは検索注意。グロいです)
不快感を示す人はべらぼうに増えただろう。そして自らの「普通」と照らし合わせて排除したくなる感情に負けてしまい「これはつまらない」と評価してしまっていたかもしれない。
このテーマを選び、描き、読者に飲み込んでもらい、さらには影響を及ぼす。
朝井リョウはそのために作品で使うアイテムを厳選しているのだ。
読者の脳内で展開される映像の影響力まで計算して書かれたのが『正欲』なのである。
これは私の妄想ではないという証拠に、ひとつだけ具体的な例を出そう。
作中ではかなり特殊な性癖を取り扱っているが、その一方である程度認知されている特殊性癖が出てくる場面がある。
しかしその部分は、読者が不快になる前にさらっと流すような描き方が施されているでしょ?
まあそういうことだ。
本当に達者で、素晴らしい作家である。あんなアホなエッセイばかり書いてるのに…。
最後に
中身に抵触しないことをルールに書いたので、かなり抽象的な内容になってしまったが、文字情報を積極的に取りに行くような皆様であれば、きっと楽しんでいただけたものと期待する。
これはあくまでもブロガーとしての個人的な価値観なのだが、強烈な作品を読んだときに本文を引用して語るのは卑怯だと思っている。
もちろんその手法で深く語れるのは分かる。それでしか語れないこともあるだろう。
しかしながら、作品の「特に味がするところ」を都合よく抜き出して語るのは、尻馬に乗りすぎではないかと思うのだ。あと、自分で生み出さずに承認欲求を手軽に満たそうとしている感もある。
このような記事の書き方は時間が掛かるし、私のツルツル脳みそには負荷が高い。
だがしかし、作者の権利と作品に対する誠意を優先するならば、これ以外に表現方法はない。
ということで、傑作の尻馬に乗っかったレビュー記事を終わりにしたい。
最後までお付き合いいただき感謝。
以上。